自分は何者か

自分は何者か

卒業生 77回生

三好 タケル

アーティスト

まえがき

はじめに断っておくと、私は文筆家ではない。私的な書き物すら習慣的にする方でもない。だから、当然に拙文になるだろう。恥を晒せば、このまえがきを推敲している時点で既に自ら設定した〆切を超過しているほどには刻苦している。なんとか書き上がった際には、是非多くの方に読んでいただける様お願い申し上げます。

私は学生時代を明星学園高校で過ごした。学園生活では特に現代文と哲学の授業で多くを学んだ。同級生のみならず外国人留学生や一回りも二回りも年上の卒業生など多様な人物と出会えた場所でもあった。それらの学びや出会いは幼少期から漠然と感じてきたことや考えてきたことを形象化する方法論のようなものを身に付けるきっかけと成って、現在に至るまで私の思考の世界に連想的に作用していると思っている。明星を通じて出会った人の中には今も仕事を頼んだり頼まれたりする関係にある人もいる。

20代に入ると、私はその時間の殆どを公衆の前でピアノを弾くという活動に費やした。その中では異なる言語を話す諸外国人を含む音楽人、舞踏家、詩人、俳優、お笑い芸人、マジシャンや和芸家元といったような肩書を持つ人間と出会った。そして、かつて学生時代に学び思考の畑に播種された仮定が、実証されたり反証されたりしながら耕されていき、私の世界は更なる広がりを持った。考えを捨てたり改めたりもした。

現在、30代に入って3年が経とうとしている。とりわけ直近の半年はめまぐるしい。このエッセイは今日までの私の思想精神の遍歴を簡単に明らかにする評伝のようなものにしたいと思って筆を執った。

自分は何者か

私は何者でもない。このエッセイを読まれている私を知らないあなたは、もしかしたら、私が何者か気になっておられるかもしれない。尤もこのエッセイが掲載される頁には私の顔写真と共に名前と肩書きが書かれていて、文末には簡単なプロフィールも掲載されることに成るだろう。現実世界でも尋ねられれば、私は例えば「ピアニスト」という肩書きを名乗る。仕事でコンサート会場に行く時は挨拶の次には自ら肩書きと名を名乗っている。業務上必要なことだからである。もし何者かわからない人間がコンサート会場のバックステージなんかに佇んでいれば、それが会場スタッフなのか関係者なのか紛れ込んだ観客なのかすら分からないから困る。私が芸術家であるという曖昧で広義な肩書きしか認識されていなければ、絵を描いてくれなどと頼まれるかもしれない。私はピアノを弾くことくらいしか出来ないからそれも困る。

確かに、私はピアノを一切触らずにただパソコンに向きあって作曲やアレンジをする仕事もするし、何を弾くわけでもなくただピアノの前に座っている私の姿をカメラマンが撮影するという仕事もする。それどころか、時には腰袋を携えて脚立に跨りながらトンテンカンとステージを制作するという仕事までする訳だから、もう私は何者なんだか訳がわからなく成るだろう。そういう意味でも私は自分のことを年がら年中ピアノを弾くことが職業の100%ピアニストだとは思っていない。それに、私はまわりの人間よりは奇抜な髪型をして、髭を生やし、時に金色のシャツの上に長襦袢を羽織ってみたりするからだろうか。街中で見知らぬ人に「職業は何ですか?」と聞かれることがある。「アーティストです」と答えれば、その人はどこか納得したような表情になる。人は肩書きを見て安心する。

私がはじめてステージに立ったのは4歳の頃である。以来30年近く公衆の前でピアノを演奏することばかりやり続けた。そうして次第に人は私に「ピアニスト」や「音楽家」という肩書きを与えてくれた。だけど私にしてみればいつの間にかそう呼称されるように成っただけであって、私はピアニストに成らなかった。成れない。そもそも、日本では特段プロ試験のようなものがある訳でもなく、ピアニストだとかアーティストという肩書きはその人が名乗れば、誰でも成れるとも云えるし、どの時点で成ったか私も説明できない。私はただ音楽を弾いては忘れ、作っては捨てを繰り返してきた。その数多の繰り返しの中で人々の記憶や記録物として世に残ったものを手立てにして人は私を計るのだろう。

さて、私が音楽に親しみ始めた頃の記憶は定かではなく、何を以て音楽との関わりを開始したと云えるかも分からないが、少なくとも両親が私をピアノ教室に通わせ始めたのは4歳の頃だった。毎日欠かさずピアノという楽器と触れ合い、新しく出会った名作を悠悠閑閑と習得していった少年時代だった。ところが、高校入学前後あたりの年齢になってくると、私が慣れ親しんでいる曲は西洋音楽であり、その作者は私とは違う言語を話すことを理解した。その頃から日本人の私が西洋音楽を演奏しているという矛盾に得も言われぬ違和感を抱きはじめた。それは思春期の私の中で日に々に増大していった。後に高校を卒業して本場欧州に学ぶことを望んだきっかけにも成った。外国語を学び、異国の地でそこに暮らす人々の生活の中に自分を同化させるような真似事もしたが、その後も長らく違和感は私の中に深く膠着いていた。

高校の現代文の授業は選択科目も含めて3年間履修した。好きだったのは小林秀雄の『Xへの手紙』とリルケの『マルテの手記』だった。特にリルケに関しては、卒業後ではあるが、河出書房新社の全集を読み、いくつかは独力で原語訳をしたほど好んだ。入学早々に全員必修の現代文の授業で扱われたテーマは「自分は何者か」だった。自己と他者を明確に定義し、その間に境界線を引き、自己意識を形成するプロセスを学んだ。意識的に「自分は何者か」と思考するようになった。当時は時態ではあるが、自分の言葉の世界を持つことが出来るように成ったのだろう。11年生から2年間哲学の授業を履修した。一般的な哲学入門が広く扱われていたと記憶しているが、当時の授業で知ったと今でも憶えているのは、価値判断の社会的決定(コンドルセのパラドックスやアローの不可能性定理)、論理の完全性(ゲーテルの不完全性定理など)、デカルトの心身二元論、メルロ・ポンティの身体論あたりである。

20代という時間では素晴らしい人物に出会い、素晴らしい人物と死別したりもした。人は人の死によって、死ぬということを意識することが分かった。私の中では生きている人と死んでいる人の間にも境界線が引かれた。仕事の現場では時に怒鳴られたり、譜面台や椅子などの硬質な物体を投げつけられるというような目にも遭いながらー自分の人生は順調だと感じたり不調だと感じたりしながら、10代最後あたりから思っていた「自分は一体何者なのか」延いては「何者に成りたいのか?」という問いに対する答えを見つけたいが為にピアノの椅子に座り続けていたように思う。言葉で言い表せないという言葉があるが、言葉で言い表せない思いを言葉にするという行為が哲学である。それを私は言葉では語ることの出来ない音楽をしながらやっていた。音そのものという現象、音が起こす連想、或いは音楽をする自分について語ることは出来たが、遂に音楽そのものを語ることは出来なかった。言葉が総てを語ることは出来ない、言葉が音楽を語れないのと同様に音楽は言葉を語れない。語らない。ということを思い知った。

20代の後半の頃から万葉集にメロディーを付けて歌う人の楽曲に伴奏を与えて演奏活動をしている。歌詞は万葉集でも音楽のロジックは当然に西洋音楽である。日本には、言葉には一音一音に精神が宿るという言霊の精神がある。一般に言葉を記号として扱う西洋思想とは違い、日本語は本来、一音のそれ自体に意味があったことを知った。知ったというよりは、子供の頃―言葉を覚え始めた頃既に言葉の音の響きで物思ったであろう微かな感触のようなものを思い出した気がした。殆どの他民族の言葉は単語によって表現されるが、日本人は画期的な言葉の世界を持つ。千利休は多くの言葉は残さなかったが、茶道の心を和歌に求めた。松尾芭蕉は俳句の世界に宇宙的な表現をした。日本にはたゆたう、曖昧な精神がある。曖昧であることは、特に異国の地に暮らした時は日本人の良くない特性だと感じていたが、実はこの精神によって、日本人は多くの思想や宗教や文化を受け入れ、咀嚼して、融合させたのだろう。このことに気がついたとき、10年近く私の中に蟠り続けていた、日本人の私が西洋音楽をしているという矛盾への違和感が溶解した。同時に「自分は何者か」に対しては、自分も日本人の深い精神を持つ民族であるというアイデンティティーをはじめて自覚し、10年生のはじめに現代文の授業で一度明確に引いたはずの「他者と自分」の間の境界線だったが、自分はそれを曖昧にすることも出来る民族だったということを漸く知った。依然として音楽そのものを語ることは出来なかったが、言葉を有する人の無言の行為として、私はピアノを弾いているのだと思うように成った。

そして30代に成って、正確にいえばここ半年ほどで自分は何者でもないことを深く自覚するに至った。この半年の間に自分は子宝を得たということがわかり、もうすぐ自分の遺伝子を受け継ぎながらも他人である人間が目の前に出現する予定だからだろうか。10代で自己と他者を区別することからはじめて、20代では実践的に自らに「自分は何者か」を問いながら過ごした。その答えの断片のようなものが私の頭の中にふつふつと湧いては消えてゆく中で、次第に世の中に何かを生きた証として残したいという気持ちを持つようになっていたと思う。何かを残したいと思うのは人の本能のようなものだろうか。もうすぐ生まれる子供のことを思うと、例えばその子が車に轢かれそうに成ったら身代わりに死ねないものだろうかと考えた。実はこのエッセイの草稿段階では「私は何者か」の他に死生観が培われていった過程も盛り込んでいたが、余りにも長かったのでその殆どを書かないことにした。けれども、掻い摘んで云うと、いつかやってくる死に至るまでどう生きるかということが生き方そのものであるという死生観を持っていた私が、今日が私の死ぬ日に成るかもしれない覚悟を毎日持って生きることが生き方そのものであると考えるように至った。そうして掛替えの無い日を生きることにした私は「自分は何者か」を自ら問う意味を見出さなく成った。私が死んで数十年経てば、誰も私を知らない。だから何かを残そうとか、残せるとは思わなくなった。現在の私は何もしていないのと同じであるが、今するべきことをしている。三十にして立つとはよく言ったもので、今のところ、孔子の云った通りに成っている。
振り返れば確かに十有五にして学に志した。先人の教えを信じて、天命を知ることが出来るかもしれないことを楽しみにしつつも、当面は惑わずに至るまで存分に惑いたい。日本人の私は明日も西洋音楽をし中国人の教えを信じている訳である。今夜はカレー屋に行くかもしれない。やはり私は何者でもないとしか云いようがない。

今後ともご指導、ご鞭撻の程宜しくお願い申し上げます。

ライブ情報 『SPARA Precents CINEMATIC LIVE in 浜松』 日時 2025年2月28日(金) OPEN18:30 / START19:00 会場 キャトルセゾン浜松

http://office-saku.com/info/all/7915

自分は何者か

PROFILE

三好 タケル

1992年東京都出身。
4歳で初めてステージに立ち、伴奏者としてもデビュー。
高校在学中に制作していたオペラの室内楽版や合唱曲などが認知されはじめ、本格的にストリングスやコーラスのアレンジ(2009年雪国観光圏テーマソング)を手がけ始める。
高校卒業後に渡欧し、ベルギー・イタリアにて本場の室内楽やオペラを学んだ。クラシック奏者としては欧州都市カルテットやベルリンフィルハーモニーの現役奏者らとの共演を果たし、また合唱エキストラとしてオペラ作品(魔笛・道化師・カルメン他)にも出演している。
2014年からは3年間、レッスン毎に完全即興のオリジナル楽曲で演奏するバレエピアニストを務めた。
一方で20歳の頃からポップスやゴスペルなどサポート演奏に参加しはじめ、バンドアレンジを手がける経験も多く有し、レコーディングに参加した楽曲の1つ(Before Monday/小関ミオ)は2017年に世界インディートップチャート8ヶ月連続一位を記録した。
2024年現在、パフォーマーの一挙手一投足に寄り添い魅力を引き出すサポートミュージシャンとして、音楽人のみならず例えば和芸家元、ダンサー、詩人や俳優など様々な表現世界で活躍するアーティストと共演し多方面からの信頼を得ている。