私學の意義―武田 祐吉(文学博士/保護者)

大草美紀(資料整備委員会)

私學の意義  文学博士 武田 祐吉(学園保護者)

 小生は私学の教場の片隅で生まれた者である。というと、不審に思われる方があるかも知れぬが、小生の父は、寺子屋から引き続いて、私立の小学校を経営して居って、教場、即住宅であった。教場は畳に茣蓙を敷いて、朝は机を並べて生徒を迎え、夕は机を片付けて家庭になる、その片隅で障子か屏風かを隔てにして生まれたのである。

 爾来、中学を公立のお世話になっただけで、現在もまた、私学の学校に関係している。私立の経営難の如きは、幼時からしみ付いているところである。しかも私学の学校が、多大の経営難を味わいつつもなおその存立を続けて行かねばならないのは、単に公立学校の不足を補うというだけではないはずである。公立の学校に得られざるものが無ければならないからだと思う。

 小生の子供は、いま四人まで明星学園のお世話になっている。はじめ長女が学齢に達した折に、いづれの学校に入学せしむるかが、相当に頭を悩ました問題であった。それは自分が、在来の公立の学校に対して、その画一的な累型的な教育方針にあきたらぬものがあったから、特に教育方針に特色ある学校を選択したいと思ったからであった。幸に畏友安藤英方君に依って、明星学園の存することを知り、経済上の危険を冒してもこれに入学せしめたのは、子女を託するに足るものがあると思ったからであった。其所には、ゆったりとしてこせつかない教育が施されていると思う。もっとも男の子の如きは、猫を樹からぶら下げたりしていて、すこしのび過ぎているようであるが、やがて目覚める時期が来るであろう。やがて目覚め来るものの為に、その準備をしてやるという教育こそは明星教育の特質であろうと思っている。

 人間に個性があるように、学校にもそれぞれ個性があるべきである。それを公立の学校は、多くの規制に煩わされて、失ってはいないであろうか。関係法規の許している範囲内で、私学は一層自由な個々の人間完成に中心を置く教育方針が建てられる。そこに私学としての価値が存すると思う。

 勿論私学のなかには公立の糟粕を嘗めているようなのもあろうが、それは到底本当の私学とは言えないようである。幾多の経営難を冒しても、私学の経営せられる理由は、かくの如くであり、多少の設備の不備を忍んでも、子弟を私学に托する理由は、亦ここになければならないと思う。

小学部教育月報『ほしかげ』第12号(1934年12月15日発行)

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