奈良 正博 (なら まさひろ)

大草美紀(資料整備委員会)

奈良 正博 (なら まさひろ)
1934~2018.1
卒業生(63回生)の父
演出家、映画監督
元明星学園PTA会長
元明星学園後援会会長
元学園評議員

1934(昭和9)年生まれ
東京都出身。東京大学独文科卒業後、映画製作会社・東宝に入社。「恋の夏」1972年/監督:恩地日出夫、「阿寒に果つ」1975年/監督:渡辺邦彦、「白夜の調べ」1978年/監督:セルゲイ・ソロビヨフ 西村潔、「アモーレの鐘」1981年/監督:渡辺邦彦 などで助監督を務める。
独立後は演出家として活動。映画、演劇等の演出・構成のほか、世界の童話を朗読し音声媒体化する活動に携わる。
1984年、一人娘が明星学園小学校に入学。その年明星では小学校の入学児童数が定員72名に対して30名という状況のなか、奈良さんはPTAの活動にも積極的に参加し、就任したばかりの依田好照小・中学校長をたすけ、学園に貢献された。1987・1989・1995年度にはPTA会長、2002~2005年度は明星学園後援会会長・学園評議員を務めた。2006年からは明星を応援する有志の会・「輝け!明星学園」の会の世話人のひとりとして、明星関係者の講演を欠かさず映像で記録し資料として残すなど、亡くなる間際まで明星学園を応援し続けた。

明星学園の初心=根っことは?
奈良正博
1. わたしの娘が明星学園小学校の1年生になったのは、 1984年の4月でした。それは依田先生が校長に就任された最初の1年生でした。騒動の直後というか、「けりのつけはじめ」というか、まだ湯気や煙がほやほやの時期で、新1年生はたしか 31 人、1クラスの定員にも満たない人数でしたが、その少ない生徒を敢然と2クラスで編成された学園の決定が、文字通りの英断であることを、教室を覗いたものは直感的に理解できました。わたしたちがお世話になった保育園でも、クラスの定員は20名でしたから、1クラス15、6名のありがたさ、贅沢さは言いようがありません。後に聞けばそれは現場の先生方、依田校長、松井理事長などのみなさんが、一体になって下された決定だったそうです。
2. 目を見張る想いをしたたくさんの出来事からひとつ ・・・1年生の担任は、辻木・阿子島の両先生で、音楽は秋野先生、体育を担当されたのが、今は亡き人見進夫先生でした。人見先生は今明星会の会長の人見武彦さんの兄上で、卒業生の回想にもしばしば登場する先生ですが、その人見先生が最初の父母会で話されたことは、
「最初にやったのは、わたしが寝っころがって、お腹を一人一人踏んで歩いてもらいました。そうすることで、子どもたち一人一人の力が実感できる。あとはその一人一人の力が、1日1日伸びて行くように心がけていきます。」淡々と話された人見先生の言葉は、単純明快に明星教育の原点=初心をしめすものだと直感できました。
ガッパさん(内藤先生)の国語の授業は、「文法」だけでなく、作品を細部まで読み砕く「文学」、それに亡くなるまで推敲を重ねた『漢字の本』(明星学園国語部編の小学生のための教科書の改訂版)など、興味深いものがたくさんあります。さらにガッパさんの見事さは、子どもたちとの毎日の日常へのつきそい方、子どもの前だけでなく、時に横に、時に後ろに立って子どもたちと接する教室の生活に発揮されました。
ガッパさんの小学校での最後の記念公開授業をわたしはヴィデオ録画することを依頼され、古い小学校の音楽室で記録しました。内容は「文法」です。資料整備委員の大草さんのところに1巻収めてあります。(「ガッパと4年1組」)1996 年2月のものです。ぜひ皆さんにも見ていただけるといいな、と思います。
3. わたくしは、1934 年に東京の高円寺で生まれました。小学校ではなく、杉並第3国民学校の第1期生で、その1年生の12月8日が「真珠湾」でした。
4年生のとき、学童疎開で男子だけが、1組になって、宮城県の松山町(松島の少し北)のお寺での生活に入りました。 5年の春に、縁故疎開に切り換え、今のあきる野市の草花の多西国民学校に移り(現常務理事の平田先生も教えていらしたそうです)、敗戦後またもとの、今度は小学校にもどりました。
中学は、当時の東京高等師範付属中学に入りました。高校卒業のときには、東京教育大学付属高校になっていました。(現在は筑波大学)新制中学第一回の入学式の直後、名物教師の一人だった先生から、「我が校の永年のモットーは<強く、正しく、朗らかに!>です。」と高らかに言われ感心しました。闇市・焼跡派の少年の心に素直に沁みこんだこのモットーは、折に触れ蘇り、とくに困難の時には強く支えてくれました。
娘が明星学園にお世話になってはじめて、わたしはこのモットーの本家本元に辿りついたことを知り、感無量でした。
創立70周年に、依田先生の明快な解説を付して復刻された照井猪一郎先生の『明星誕生ものがたり』に次の一節があります。
「自主自立は人の意志を強くきたえる。個性尊重は人権不犯の法則で、正しい人格はこれに強くきたえる。個性尊重は人権不犯の法則で、正しい人格はこれに根ざす。自由平等は人間の生活を明朗にし、人間に永遠の平和を与える。
強く―正しく―朗らかに この明星の教育語は永遠に愛誦されていい。」
ここに明星学園の根っこがあります。
4. 明星学園の父母は、実に多才で、啓発されることが多く、PTAや後援会で貴重な体験をさせてもらいました。わたしは、騒動直後のPTAに参加しましたが、まず、いろいろな個性と素直に付き合いたいと、念いました。ばっさりは止めて、できるだけお互い納得のいくところまで話し合って合意に達する。前衛ではなくて、後衛であろうと思いました。
会長など思いもかけませんでしたが、余儀ない事情に浪花節的仁義でお引き受けしました。本当は一兵卒で自分のやるべき面白いことに専念したいのですが・・・だから「かいちょうはかいちょうでも、怪しい鳥のかいちょうです。」とか申してしのいでおりました。
バザーで12年間続けて「餅つき」をやりましたが、暗いうちから薪を焚き、湯を沸かし、湯を沸かし、もち米をふかし、1,000食分の餅をつきあげ、加工するのです。つき手、加工、販売と30人ほどの休みないチームワークは、ほんとうに一体感そのものです。
終わった後、一杯やりながらの率直なやりとりが実に楽しかった。
2003~2005年には、後援会の会長もやらせてもらいましたが、明星の大人の持てる力を大いに発揮してもらおうと心がけました。
しかし後援会という長い時間学園に貢献した組織にも、組織的動脈硬化が生じ、解散ということになってしまいました。明星学園には、この世で起ることは全て起ると覚悟せよといという実感をもって、いろいろ努力しましたが、それを克服するには、一致するまで丁寧に話し合う原理を確認することから始めなくてはならないのではないか? と思います。
「強く―正しく―朗らかな」子どもの世界を支えるのは、「強く―正しく―朗らかな」大人の世界、力です。
幸い明星学園は、その長い歴史で、良い伝統も負の遺産もたっぷり体験してきました。みんなの力を集中して「より良き」姿をつねに求めることに貪欲でありたいと思います。
「生きる意志」、「希望の原理」「人生を愉しむ」・・・明星学園の初心と根っこを新鮮に想い起せ起せば、湧き上がるのは、プラスのイメイジだけです。
(63回生父)
〈「輝け!明星学園」の会お便りNo.24より〉
#明星学園の保護者
#明星学園の功労者
#明星学園後援会
#明星学園史研究会
#「輝け!明星学園」の会

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