上田 八一郎 (うえだ はちいちろう)

大草美紀(資料整備委員会)

上田八一郎(うえだはちいちろう)
1890年(明治23)5月15日生まれ、1965年(昭和40)7月16日死去

 

 

 

 

――明星学園旧制中学校の創設に参加し、その折り何を期待し何を願っていたか――

中学校教育雑感

 武南さんから中学入学の御子様をお持ちになる父兄母姉の方々に何か書いてみてはとのお話がありましたので、以下私の雑感六つを述べさせて頂きます。それによって私が平常何を考えておりますかをご想像願いたいと思います。

(一)
官立の病院と私立の病院、ないし大きい病院と小さい病院、この利害得失を考えてみると、それが官立の学校と私立の学校、ないし大きい学校と小さい学校の、それによく似ていることに気がつく。10年前弟が脳脊髄膜炎に罹り、ある官立病院の1室で愈々最後の息を引き取ろうとした晩、その晩の当直が皮膚科のお医者であったのにガッカリしたことを今思います。思い出しただけでもゾッとする。おもしろいことには英国では公立の病院は大抵 hospital というが、私立の病院は大概 nursing – home と呼んでいる。私の学校――学校といえないほどに小さな学校ではあるが、教育するとか教授するとかいう気持よりもお守する心持の方がより多く動いている。やはり一種の nursing – homeであろう。

(二)
「学校ではウント鍛錬せねば駄目だ」とか「日本教育の真髄は鍛錬にある」とか「不可能を要求されぬものは全力を発揮するものでない」とか、世間ではよく耳にする言葉である。しかし言葉や文字に眩惑されてはならぬ。瓦を極度に鍛錬しては悲しき瓦礫となるの恐れがあり、硝子玉を無慈悲に鍛錬しては無意味の玉砕に終る危険がある。真に安心して鍛錬しうるものは鋼鉄だけであるかもしれぬ。少しいい過ぎたようにも思うが、とにもかくにも、角を矯めて牛を殺すが如きことがあっては一大事と申さなくてはならぬ。

(三)
ある人は自分が若い時に苦労した経験から子供も苦労させねば駄目だという。またある人は自分が若い時に苦労したから子供だけには苦労させたくないという。もちろんこの2人のいう苦労はその意味内容において各々分明でない。ただし私は後者が人情味のより多い人であり、その子供は必ずや心の豊かな伸長を持つであろうことを信ずる。親はすべてにおいて主観的な物の見方はできるだけ避けねばならぬ。いわんや主観の強要があってはなおさら悪い。

(四)
現代のような漫談時代においてはすべての人の考え方に統一も余裕もない。殊に女の方には瞬間的な思考が多いように思う。漢文の話を聴くと漢文でなくては人間が造りあげられぬかのようにその日から子供の漢文の予習復習にやかましく干渉する。次の日に柔道の話を聴くと、これなくては人物の向上は絶対無いかのようにその晩から道場に通わせる。1週間も経たぬうちに「文字が上手に書けぬと将来出世ができぬ」と聞かされると、夕飯の箸も下さぬうちから硯と筆とを持ち出して書かせようとする。子供こそいい迷惑である。かくして親の気分の犠牲になっている子供がどのくらいたくさんあるだろう。誠に「愛は惜みなく奪う」世の中である。

(五)
エレン・ケイ女史はその名著『児童の世紀』において「子供の自然的教育の妙技はその過失を10度の内9度までは不問にするところにある」と述べている。思うに大人は往々子供において自己の欠点を見出す時、それらを見るに忍びざる心持から無意識に責め、または叱る場合が可なり多いと思う。

最近子供の生活を題材にした西洋映画がかなりたくさん上映される。その中にも「スキピー」が私には最も感興深いものであった。

乱暴で空想的な子供が如何にデリケートな涙ぐましい純情を持っているかを教えられた。しかも大人と子供の世界がどんなに相違しているかも見せつけられた。既に見た方もありましょう。もしまだ見ない方がありましたら、またどこかの映画館に上るでしょうから、ぜひ子供の持つ純一無雑の世界を見ていただきたいと思う。

(六)
現代の教育は知識偏重であって人格教育などは薬にしたくもないと世間では申します。後者は認めるとして、前者には多少異議がないでもない。実際のところ、偏重はおろか、誠に不完全極まる知識である。せめて知識だけでももう少し偏重したいような気がする。といって私は点数や席次をつけて個人間の空漠たる競争心と名誉心とを刺激するの愚を知識偏重というのではない。極言すれば、完全に知育が施されるならば人格教育の全部とはいわぬが、少くともその一部分は自然にその効果を収めることができるのではないでしょうか。いわんや学塾の中心人物を敬慕して集まった昔の時代を再建することの困難な現代においては。

しかし、私は信ずる。すべての教育の問題は最後には教師論に帰る。知育といい徳育というも、要は教うる人、その人に依存する。しかして現代には誠にその人少し。(昭和8年)

遺稿集『漫思凡考―上田八一郎先生を偲ぶ―』(1971716日)

中学部所感―漫思凡考

 僅か百名に過ぎない少数の生徒であるからには、きっと手の屈いた仕事か出来るであろうと親達は期待されるが、実際やって見ると中々そうは行かぬ。十人十色と云うが此処では正しく百人百色である。少数であるだけ其色合が可なりの程度までわかるが、少なくとも太陽の七色だけでは分類出来ぬ事は事実である。

 白味かかったとか灰色がかったとか云う形容詞を用いぬと表現出来ぬのもあれば、又桃色に藤紫を加えたといったような複雑なのもある。所詮百人百色である。誠に各人の持つ個性――特異性――は造花の妙だと思う。

 如何に巧みな植木屋でも松を梅に変性せしむる事が出来ない様に、如何に巧みな教師でも生徒の個性を変える事は出来ない、否、それは却って自然に対する冒涜であろう。そこで吾々のなし得る仕事はただ其個性によき方向を与えしむるにあるのみと云う事になる。と云えば至極簡単なよりだが、この仕事か中々並大抵でない、恐しく事業難である。白を黄と見違えたらとんでもない方向肌彼等を導くことになる。世間には白を赤と誤診されて前途のある一生を棒に振った者もある。胃アトニーを胃下垂と診たって大同小異だろうが、時に腸チフスを肺炎と誤診する事がないでもない。従っていくら薬を投じて見ても一向に効き目がない。かくして教育者は診断の正確な名医であらねばならぬ事になる。ルビッチと云う映画の監督が患者を看るように共に働く女優を観察するという。そして彼は唯一つの美点すらも持ち合せない婦人は殆どない、どんな婦人でもよき方向を与えれば自己分析の結果、自分に恵まれた点を発見するものだという。これは彼が名監督と呼ばれている所以であろう。

 私は飽くまで個性の尊重者である。世間では(個性――自由――我儘――放縦)(団体規則――服従――統制)という風に飛躍的に考える人が多い。しかし私は特異性を持った大個性の集団でなければ団体も社会も強固なものにならないと信ずる。個性を滅却した団体は、よし強制によって一時的の統制は得られるであろうが、決して永続きはしないと固く信ずる。

 二十余年前、私がまだ学生であった頃、三宅雪嶺氏が「教育上の疑問と仮解答」と題し「学生時代、数学が不得意で落第の憂目に遭った者で現在これこれの要職にある者があるかと思えば、又英語か不得手で悩み切った者で現在華華しく国政を料理している者もある。人には各々其特異性があるので数学や英語だけで其人の全体を量ることはどうかと思う」と云った様なことを直截簡明に、しかもあの咄弁で投げつける様に吐き出された事を思い出すのである。そして二十年後の今日、雪嶺氏の疑問が私の疑問となり、雪嶺氏の仮解答が私の仮解答になっている事に気がつく。然し現実は誠に憂欝である。上級学校への入学試験なるものが私の夢の一切を叩きこわして了う。

小学部教育月報『ほしかげ』第12号(19341215日)

25年の回顧
旧中学部・女学部は昭和3年4月の創設であるが創設までにはかなり難コースを辿った。
昭和2年5月頃には女学部だけの創設ということになっていたが、私は8月に退官して上京した。その後女学部だけの創設も困難ということになり、ついに翌3年元旦赤井園長から創設中止の声明があった。私は内心重荷が下りたような気持もした。ところがまた1月10日頃から父兄の役員会が連日開かれて、万難を排し何としても中・女を創設するという空気が濃厚になってきた。
もちろんその後も雑多な難問題が引続いたが紆余曲折を経てともかく形だけは創立ということになった。その当時小学部の父兄であった故茶郷氏・故山之内氏および岡崎氏・新氏などその他母姉の方々が園長を助けて異常な努力を払われたことに対し、哀心感謝の意を表してやまない。
これより先、大正13年の夏赤井園長は講演のため私の前任地朝鮮に来られた。その時明星学園も3年後には中・女を併設するから上京されたいとの話があった。私の方から色々な希望を出してみた。1学級30名、生徒総数150名を超えざること、男女共学、無認可の学校、上級学校入試準備の要らぬ学校、武道と教練のない学校等。それらのことに対し園長は笑って聴いていた。しかし「総数150名」も戦争中には固持できなくなりその他のことがらは最初から実現のできないものであった。
「気にくわぬ風もあろうに柳かな」で今日にいたるまで柳のような生活に終始してきた私である。
考えてみると、中・女が創立された頃はいわゆる自由教育に対する非難が既にポツポツ現われていた時であった。神近市子氏が東京日日に載せた一文の如きはその代表的なものであったろう。いわゆる自由教育の指導者たちは最初は理想家であり、旧教育の組織の中から飛び出し、自己の理想を実現するために新しく自己の学校を営み、そこで自分の思うままの教育を施さなくてはならなかった。かかる事情は純情素朴な自由教育家たちを1人の企業家ないしは職業人の地位に陥れてしまった。そして最初の野性的な魅力が失せて教育が事業に呑まれる危機に立つたというのである。かくの如く中・女創立当初既に自由教育は漸次社会の要望から遠ざかり、一応の使命を果したものだと断ずる人々がかなり出てきていたようである。
しかし、顧みて明星教育に関する限り教育が事業にのまれたという事は絶対になかったと思う。それだけ貧乏暮しに終始してきたことは争うことのできない事実である。

(「明星25周年記念誌」、上田八一郎記、昭和24年10月)

年譜を追って

明治23年5月15日上田八一郎は富山県福野町に生れた
明治37年中学時代になってやっと体に白信をもち、柔道と水泳に熱を上げる。
明治41年父の友人が金を出すから神戸高商に行けとすすめられたが本人は東京に出て苦学して政治家になりたかった。祖父は医者にさせたかったようだ。結局高等師範はすべて官費ということで広島に行くことにした。
明治45年禅に興味をもち、よく坐禅に出かけた。臨済宗妙心寺派仏通寺管長岡山雲庭老師につく。昭和の初期老師が自殺され、仰天、人生観がわかる。
大正2年高等師範卒業、高師付属中学校に奉職。
大正10年朝鮮大邱に転住、大邱中学創設に参加し同校教頭に就任。
大正11年3月1日午前1時頃ボヤを出す。
翻訳を生涯の仕事にとかけたキィーンの翻訳がやっと完成。机の上に積み重ねて隣の部屋で寝たところ一杯になっていた灰皿から煙草がこぼれ落ち、絨毯・たたみ・床と火が移ったが発見が早く大事にはいたらなかったが原稿が全部灰になってしまった。このことは教師に徹せよという天の戒めと感じ、それからは翻訳活動は一切しなくなった。
大正11年7月28日臨海行事(於馬山)で当時結婚問題で悩んでいた豊田一郎先生(地理歴史担当)に、海にでもいって気分を変えたらどうだとすすめた。ところが一生徒が溺れかけたのを飛びこんで救おうとしたところ、心臓の発作がおこり殉職された。ちょうど松本訓導(井の頭公園わき玉川上水)の事件の直後だったので、朝鮮全道をあげての騒ぎとなった。当時のマスコミにもみくしやにされ、自分がさそわなかったらという後悔や自責の念にかられ、どうすることもできない大事件であった。それ以後、明星でも宿泊をともなう行事の実施計画・行動については、若い先生が辟易するぐらいうるさかった。
昭和2年明星学園、中・女学校創設のため大邱を去り、全家東京に転住。これより先、大正13年夏、明星学園赤井園長は講演のため朝鮮にわたり、3年後には明星学園に中学校・女学校を併設するのでぜひ上京されたいと懇望した。この時希望として「1学級30名、生徒総数150名を越えないこと、男女共学、無認可の学校、上級学校入試準備のいらない学校、武道と教練のない学校」等、長い官・公立学校の生活体験から得た理想を述べた。
昭和3年明星学園中学校(旧制)の部長に就任。以来「生徒の人格を尊重しよう。彼等の個性を尊重しよう。彼等を英漢数で割り切ってはならぬ」という信念を、父母・社会に対して常に主張し、以後今日にいたるまで、明星学園の教育に全力を尽くした。
昭和22年3月明星学園中学校(旧制)および女学校(旧制)校長就任。
昭和22年4月明星学園理事就任。
昭和23年4月明星学園高等学校(新制)校長就任。これより男女共学実施
昭和30年5月藍綬褒章を受く。
昭和30年8月学園の振興事業始まるや酷暑の中を土地拡張のため奔走し、夕刻学校において眼底出血のため病床に就いた。小康を得るや再度振興事業達成のために活躍したが、そのため益々健康を害した。
昭和39年2月照井猪一郎の逝去に伴い、明星学園中学校長・小学校長兼務。
昭和39年5月学園創立40周念記年式典を行う。
昭和40年3月卒業式を行い、卒業生全員と握手したのが最後となった。

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