照井 げん (てるい げん)

大草美紀(資料整備委員会)

照井げん、てるいげん

1890(明治23)年12月生まれ、1976(昭和51)年4月27日死去

 

創立同人の一人
音楽教師
創立期から学園の事務業務を担う
照井猪一郎の妻
在職期間1924(大正13)年~1963(昭和38)年11月

【以下、「明星の年輪 ―明星学園50年のあゆみ―」から転載】
明治23年12月 秋田市に生まる。
明治43年4月 秋田県女子師範学校卒業、西馬音内・川尻・船川小学校を大正11年3月まで歴任する。
大正11年4月 私立成城小学校に就職。研究のための実験校として創設された成城小学枝は開校5年目。研究成果をつぎつぎに発表。教育問題研究会・教育講習会発足。雑誌「教育問題研究」・児童雑誌「児童の世紀」発行。成城学園のもっとも教育活動の躍動した時期に教鞭をとったのである(11年5月に赤井米吉、9月に照井猪一郎が成城に就職)。音楽科・習字科を担当、かたわら雑誌「教育問題研究」の仕事にもたずさわる。
大正12年 芙蓉組(秋組)の担任となり、13年3月まで勤務。
大正12年11月(照井猪一郎と結婚)
大正13年4月 私立明星学園小学校創立に際し、同人として参加する。創立当初、1年の担任、その後は音楽科を担当、かたわら会計、学園創設当初の多忙な学校事務一般の整理にあたる。
昭和30年9月 学制頒布80周年にあたり東京都から教育功労者として表彰される。
昭和38年11月 照井猪一郎(小・中学校長)の病気、快復進まず専心看護のため依願退職。
昭和39年2月 (照井猪一郎逝去)
昭和40年5月 創立同人として、また永年学園に対する功労により名誉教諭となる。
昭和51年4月27日逝去


音楽を担当して
全心身を透してのリズム教育
リズムとメロディーとハーモニーは音楽の3要素であるが、中にもリズムは最も重要な要素といわれている。リズムは運動と密接不離の関係を有するもので、運動のあるところ必ずリズムを伴い、リズムのあるところ必ず運動を意味する。メロディーやハーモニーすなわち音は耳に塑えるものであるが、リズムは全身の器官に塑えるものであるから、リズムの教育は肉体運動を通して行うべきである。リトミックはこの主張のもとに創案せられたもので、従来の耳にだけ頼った音楽教育の欠陥を補った革命的教育法である。私たちが新しく1年生を迎えた時、私たちの行う音楽の仕事は歌を教えることよりも、先ずピアノの音に合わせて歩かせることである。最初は四分音符ばかりの単一なリズムの音楽であるにもかかわらず、ピアノのリズムとは無交渉な歩き方をする子も案外多く、中には如何に訂正してもその非リズミカルなのに匙を投げることさえある。しかし私たち教育者の仕事はたゆまざる根気と努力とをもって子供等をより高く引上げることである。そのためにはいろいろな方法も工夫され練習も繰り返されて、遂にはどうやらピアノに合わせて歩けるようになる。ピアノに合わせて歩けるようになったら、これを基調として速度に関する練習に進展していくのであるが、その前にスキップの練習をさせて見る。歯切れのよいリズムに伴う全身の躍進は、どの子にも非常な興味をもって歓迎され、うまく跳べない子供でもいつの間にかできるようになって、日常の遊びにも運動場や廊下をピョッコピョッコ小兎のようにスキップで跳びまわるくらい好きになる。こうして子供たちの体の動きも非常に軽快に、しかも注意深くピアノを聞くようになるので、これからいよいよ全心身を透してのリズム教育が一歩一歩と深められていくのである。これによって子供等は音楽に対する感性を醒まし、神経作用を整え、心身の調和と発達を助け、想像力・創造力等を養いうるようになるのである。

(「ほしかげ」17号、照井げん記、昭和11年1月)



よりよい音楽環境
小学校教育内容改善の文部省案に、現在の唱歌を音楽に改めるという1項目がある。明星は幸い私立学校なるが故に何のおとがめも在く最初から音楽という名目のもとにその所信を貫いてきた。しかして文部省が示している美的鑑賞の発達や趣味の涵養等については、われわれも誤りない方向として歩みつづけてきたが、実際は1週間1時間ありやなしやの(明星では2時間だが)時間内では到底その効果を挙げることはむずかしい。西洋の文化が輸入されて70年、その間科学の超進歩にひきかえて音楽の発展の遅々たること、専門家は別として一般民衆には、会して唱和されうるものは僅かに国歌君が代の程度ではあるまいか。われわれは西洋西洋といって一も二もなく西洋音楽の真似ごとのみにはあきたらない。さればといって古典にも属する在来の日本音楽でもしようがない。日本独自の生命を持った新たなる音楽の誕生を期してやまないものである。そのためには―――日本新興音楽創生のためには、学校も家庭も社会も一体となって子供たちによりよい音楽の環境を与えなければならないと思う。学校でピアノを習っているある子のお母さん、「私は楽譜がよく読めないので子供のピアノを聴いてやることができない。それではいけないと思ってラジオのテキストを買って国民歌謡の時に一緒に稽古した。子供等の方は私よりずっと早く覚えてしまうが、でもお陰でやっと譜が解ってきた。」と。ほんとにさすがは明星のお母さんだ。

(「ほしかげ」25号、照井げん記、昭和11年12月)



時局と音楽教育
「天に代りて不義を討つ……勝たずば生きて還らじと……。」一度東京駅か上野駅のホ-ムに出征軍人を見送って、行く人、送る人々の五臓の底から燃えて出るこの軍歌の叫びを聞いた時、誰かその意気の盛んなのに感激しない者があろうか。こうした光景を目のあたり見、かつ聴いている子供等は、時代の子であるが故に一層関心が深い。根強い何ものかが魂の中まで浸透しているに違いない。事局の影響からくる子供等の現れを音楽の方面のみから眺めると、まず朝の登校にも「天に代りて」を歌いつつ足並揃えてやって来る子があり、小さな軍歌集を常住ポケットから離さない張り切り屋もいる。また陸海軍の歌のプリントを、どこからたくさん持って来たのか、得意になって皆にわけでやってる子供もある。箒持つ手も軍歌のリズムに動き、仕事の合い間にも「煙も見えず………」が自ら逬り出る。私は今ここで軍歌の芸術的価値や教育的価値を究明しようとするのではないが、ただこの動かすべからざる事実をどうするかということである。たとえ非芸術的なものであるにしても、子供の生活の中に生きて作用していることは否定できない。明治の中期に外国輸入風の学校唱歌に倦き厭きした折柄、あたかも明治の27、8年の日清戦役に遭遇し、いわゆる際物的ではあったが軍歌集が続々出版されたので軍歌はたちどころに全国を風摩し、以来3、4年の間は学校唱歌は軍歌で終始されたといっても過言ではなかったばかりか、むしろこの軍歌時期をもって児童唱歌上の一大革新だといっている向きもあるくらいだ。
しかしその当時と今日とでは国民の音楽的教養に格段の差があるので、音楽そのものについてもちろん同列の比較をしようとはしないが、その感情のうえにおいては愛国心とか敵愾心とか正義感とか、ある一貫したものが流れていると思う。この感情のためには子供等が興味の中心である、ある軍歌を取上げることもまた一方法ではなかろうか。聞きかじりの間違いは歌曲ともに訂正してやる必要もあるし、それを題材にいろいろな音楽的取扱いもやりうる。また、同じ目的のもとに歌なり、オーケストラなり、内外のよいレコードを静かに聴かせることも誠に当をえた扱いだと思う。ただ私たちの忘れてならぬことは、子供等の興味にのみ引きずられて目的を転倒することなく、常に高次な芸術的教科であることを思念し、それに対して着実な精進努力を怠らぬよう指導することである。

(「ほしかげ」29号、照井げん記、昭和12年9月)



和音感教育
最近わが国の音楽教育界を驚かした一大警鐘は笈田先生のいわゆる「絶対音感教育」で、小学校においては和音感をつけるのを目的とするという提唱である。私たちはその教育法が従来の音楽教育の大きな欠陥を補い効果の偉大なるものがあるを学び、過去2ヵ年間その精神と方法によって学園の児等を教育して見た。そしてこれこそ日本人の耳をよくするほんとうの音楽教育であるという結論のもとに、今後もあくまでこの教育に精進努力しようとする決意を固めたのである。ここにご家庭のご理解とご協力を願う意味において、和音感教育の重要性について述べて見ようと思う。音楽は音を素材とした芸術であるので、音楽教育においては音に対する感受性の陶冶、すなわち音感教育を基調としなければならないことは当然のことである。一体音感というのは音を聴いてその音から何等かの感じを受ける現象、ならびにそれを判別する能力を指すのであって、これは関係音感と絶対音感の2種類に区別する。関係音感というのは音を他の音と比較対照して判別し認識するもの、すなわち一つの物差しとする音をきいておいてそれから音程を辿って次の新しい音を判別していく音感で、絶対音感というのは他に比較対照することなしに如何なる音でも単独に聴いて反射的に判別認識する音感をいう。音感として最も価値のあるものは和音感を伴った絶対音感であり、最も無価値なものは和音感を伴わない関係音感である。さて問題は日本人の音感であるが、それは特殊の人を除くのほか、一般には最も無価値な関係音感を所有しているのみで欧米人の優秀な音感とは比較にもならないのである。それはなぜかといいますと、日本人は永い間旋律とリズムを主とした邦楽に慣れ親しんできたお陰で旋律感とリズム感が伝統的に大いに発達してきた。ところが偶々明治時代になってそれと性質を異にする西洋音楽がはいってき、学校音楽といえば西洋音楽を意味するようになった。そもそも西洋音楽というのは和音と旋律とリズムの3要素から構成されているのであって、家にたとえると和音は土台に匹敵し、リズムは間取りであり、旋律は和音の配列の中を縫って流れるもので、家の外観ともいうべきものである。音の物理的現象は自然に和音をなしているもので、例えばCの絃が振動する時には同時にCドウアの和音がひびいてくるので和音を切り離して単音は存在しないのである。また楽曲の本質から和音を見ると、楽曲は音で綴られた文章であって、その文章の内容は調子が根本であり、その調子は和音の配列によって決定されるものでありますから、和音がわからないと結局、音の文章、すなわち音楽がわからないことになるのである。しかるに日本の古い伝統と、和音に対する認識不足とはその後も相変らず旋律とリズムの教育にのみ重点をおき、和音に対しては特別の訓練を施さなかったため、今日にいたるもなお劣等の音感より所有していないということになったのである。
しかし現在のように割合に恵まれた音楽環境に育つ子等は、今後200年、 300年と経つ間には知らず識らず欧米人のように優れた音感を持つようになるかも知れないが、そんな伝統をまつようでは、いつまでも欧米人の支配下に屈従せねばならなくなる。思いをここに致した笈田先生は和音教育の必要を叫び、組織だった方法を考案せられたのである。子供の聴覚の最も発達する時期は13、4歳ころまでだという。よく音感のつくとつかないとはひとえにわれわれ小学校教育者の双肩にかかっていると思うので、学校側は非常な馬力をかけているのである。実際の方法としては、従来非常に力を入れてきた音階練習、音程練習等は関係音感を養成する武器に過ぎないので絶対に廃止し、また移動「ド法」による階名唱法も繁雑で音の判別認識に混乱をきたすので捨てた。つまり戦争の様式が変ったので持たせる武器も新鋭なものに変ったわけである。和音感教育の系統はまず準備作業たる楽譜指導に始まり、リズム訓練・和音聴音・和音分離唱・和音分割唱・合唱訓練――カデレツ三声唱――二声唱――音名現唱法・調子感養成というように進み、その課程中には絶対音感もつくように組立ててある。楽譜は1年生の初めから取扱う。もちろん幼稚園でもわかるような簡易な方法によりますので決して子供の重荷になるようなことはない。取扱いの実際については紙面の都合上、到底尽すことはできないので、他日学習の実際をお目にかけたいと思う。

(「ほしかげ」37号、照井げん記、昭和16年3月)



☆40年の間にみのった果実
――創立40周年の式典で、小学校の子どもに話したこと――
小さい人たちのために、明星の種というお話をちょっぴりいたします。
ここにいらっしゃる赤井先生は昔の園長先生でした。3年生までしかありませんでしたが、3年の先生は山本先生とおっしゃる方で生徒が9人で’した。2年の先生は亡くなった照井先生で、生徒がたった5人、1年の先生はこの私で生徒が7人、全部で21人でした。この21人が明星の大もと、つまり種であったのです。
ところでこの21の種がよく伸び、育つためには三つの大事な条件が必要でした。それは土と、空気と日光でした。しあわせなことに明星はその三つがよく揃っていたのでした。
第1に明星の土は非常にこやしのきいたゆたかな上地でした。
第2は空気が大変にきれいでいつもすがすがしかったのです。
第3にはこの武蔵野の大空から輝かしいお日さまが隅なく照してくれたことです。
この三つのおかげで、21の種は芽が出て、根が出て、葉が出て、めきめきと伸びていきました。そして美しい花が咲いて立派な実がなったのです。その実がまた種になって植えられました。また芽が出て、根が出て、葉が出て、花が咲いてたくさんの実がなりました。また芽が出て、根が出て、葉が出て、花が咲いてたくさんの実がなりました。これを40年も繰り返している間に、とうとう今日のように、この体育館にあふれるくらい、1年から12年まで立派な実がなってしまいました。
みんな強く正しく朗らかな実です。そればかりではない。40年の間にみのった実は、日本中はおろか、世界中のそちらこちらにちらばって花を咲かせ実をむすんでいるのです。
たった21の種がよくもこんなにみのったものだとしみじみ考えると同時に、この先き、10年、20年後を想像するだけでも、何と嬉しい楽しい夢ではありませんか。
私の種のお話はこれでおしまいです。

(「星雲時代」4号、照井げん記、昭和39年3月)

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