照井 猪一郎 (てるい いいちろう)
大草美紀(資料整備委員会)
照井猪一郎 (てるいいいちろう)
1887(明治20)年4月7日生まれ、1964(昭和39)年2月25日死去
学園創立同人の一人。
小学校(旧制/新制)校長・中学校(新制)校長
在職期間 1924(大正13)年~1964(昭和39)年
【以下、「明星の年輪 ―明星学園50年のあゆみ―」から転載】
照井猪一郎は明治20年4月7日、秋田県平鹿郡川西村(現大森町)大字板井田、照井直吉(秋田師範第1回卒業生)の長男として生まれた。14歳の時、県立横手準教員養成所に入学、15歳で同校を卒業。平鹿郡八沢木村小学校へ準教員として奉職。
37年3月、17歳の折、八沢木村小学校を辞して上京、1年間独学。
18歳、38年4月東京私立順天中学校4年生に編入、2年間、昼は順天中学で夜は正則英語学校に通う。
20歳明治40年3月順天中学校を卒業。郷里では医学専門学校にはいり医者になるよう要望。しかし本人はその意志がなく独学を続け、かたわら太平洋画会で絵画を学ぶ。
大正5年秋田県仙北郡内小友小学校代用教員となる。
大正7年小学校尋常科正教員の免許をとり、内小友小学校訓導となる。
大正9年小学校本科正教員の免許(全教科)を無試験でもらう。
大正10年秋田師範学校訓導となる。学校劇・地理教育・理科教育・文学教育・歴史教育に重要な役割を演ずる。
大正11年赤井米吉と前後して東京牛込区私立成城小学校訓導となる。
12年同僚の加藤げんと結婚する。
13年2月7日(37歳)明星学園創立の機成り、創立者同人赤井米吉・照井猪一郎・照井げん・山本徳行。5月15日、現在地に明星学園を開校する。
昭和3年1月、 NHK(愛宕山)から学校劇を放送する。日本における学校放送の草わけとなる。その時の出演は5、6年生で、だしものは「夜明けまで」(照井猪一郎作・演出)。
昭和5年7月軽井沢沓掛に明星学園上野原寮70坪の建設に、父兄の江川金吾とともに現地にテントを張って頑張る。12年7月、学園創立以来つづけてきた夏季学校が軌道にのる。6年生は上野原寮で10日間。4、5年生は千葉県建田村の農家青木さん宅と朝日屋に分宿して10日間。これが千倉生活の第1回である(7月7日に支那事変おこる)。
14年4月、この年から逆立ちのできない子どもが1人もいないくらいに明星の小学校は体操がさかんになる。当時世間から“逆立ち学校”ともいわれた。
16年4月1日、小学校が国民学校と改称。明星学園では小学校を初等部と改称し、国民学校として許可され、この年の12月8日に太平洋戦争始まる。
18年7月、汽車に乗らず、歩いてでも千倉まで行き、夏季生活をさせると頑張ったが許可されなかった(17年7月20日に学童の旅行禁止令が出されていた)。
19年4月、学童疎開はじまる。学童疎開の前途は見とおしは暗く、むしろ縁故疎開を強力にすすめ、“残留の子供たちを学園で死守する”と宣言して寝具・食糧の確保と100人あまり収容の防空壕の建設を5、6年の子供たちと、小学校の職員で突貫工事をする。また用務員が束京の空襲におびえて帰郷してしまったため照井は用務員室で常宿直し、「大正デモクラシーによる民主主義に支えられてできた私立の小学校を守りぬく。教壇で死ぬほか、死に場所がないではないか」といっていた。
昭和20年8月15日、先生58歳、終戦。
21年4月、東京私立初等学校協会理事・日本私立小学校連合会副会長となる。
22年3月、明星学園初等部を小学校に改める。4月1日、学制改革(6・3・3制)。新制中学校の初代校長に就任。5月、進駐軍命令で「地理」と「歴史」の授業が禁止される。そのとき「日本人がつくった日本の学校を外国人につぶされてたまるか」といい、歴史年表・地図も、そのまま使わせる。
23年4月、日本新教育研究会理事。7月交通事情と食糧難の中で、夏季学校を実施する。6年ぶりの復活である。
24年4月、戦前は私立学校だけのものであった民主主義教育が、一般公教育の大方針(教育基本法)になったことを全職員に深く認識するよう呼びかける。同年7月、文部省国語審議会委員となる。
32年7月まで継続4期にわたり同委員をつとめる。創立30周年記念行事として、校舎の全面的改築と増築を決定し、学園振興事業部を設ける。
30年5月、東京都知事から教育功労者として表彰される。
31年3月、千倉の寮開きをかねて、第1回千倉研究会をもつ。
32年10月、第1回校内教育研究集会をもつ。照井は、「このような研究会が職員側から自主的に発案され実行されたことは非常にうれしい。学校がこの会を主催する」といって、今後毎年つづけるように要請する。
35年2月、(73歳)はじめてご飯がのどを通らぬといいだす。2、3、4、5月と病床に伏す。
36年11月、第1回公開授業と教育研究集会。「私立の教師には、教育の本質をとことんまで追求する使命がある。それをやろうとしている明星の教師に拍手してやってください」とおわりの挨拶をする。
37年7月、千倉の夏季生活には元気な姿を見せたが、しゃっくりが止まらなくて苦しんだ。同年11月第3回公開教育研究集会。先生は最後まで出席するつもりで頑張っておられたが、研究会の前夜40度を越す発熱で倒れられた。
39年2月25日午前8時55分永眠。病名急性腎炎、食欲不振による心臓衰弱。享年76歳10ヶ月。
明星学園創設
明星学園を創ろうとした折、どういう希望と期待をもっていたか――
大正13 (1924)年、学園創立のころは、まだ大正自由教育のはなやかな時代ではあったが、日本の教育の大勢は、画一注入主義の教育に依然として支配されていた。こうした日本の教育会の実情に対して彼は次のように批判している。
「すぐれた教師というのは授業と入試準備のうまい先生のことで、うまい授業というのは、決められた教材の分量を45分の1時限にはめこみ、巧みな演技で器用にまとめあげられることをいい、参観人をアッといわせ、子供たちを五里霧中にさまよわせることを指したものであった。それはすべて子供のためのようにみえて、その実先生自身の満足のためのものであった。教育は常に教師の一方的な思わくで行われ、授業は相手の個性を無視した十把ひとからげの一斉取扱いであった。
こうした技術をいやがうえにも磨きあげようとする授業の研究会は、ひんぱんに各所に行われたが、教育の本質を極めるための研究会はどこにも見られなかった。私たちはまずこうした教育の世界に見切りをつけ、ことごとくこれを非難した。私たちの狙いは私たち自身の中にふくらみつつある。それは教育の一般性のうえに誠実に根をおろし、どこにも誰にも納得のいくような科学性のある真の教育をこの職場に打立てることである。」
(照井猪一郎が「明星誕生ものがたり」として書いた文章の一節)
そして明星学園の発祥は、その動機は少しの神話も奇蹟も、独りよがりの野心も、野に立つ使徒の祈りからできたものでもなく、避くべからざるある一つの偶然からであった。
(「式典に因んで」、『PTA会報』30周年記念号)
このように記していることはそれだけ、教育のきびしさ、学園創設の厳粛さというものを自ら戒めていることが理解される。
めまぐるしい教育の花園から、この草深いむさし野にわけ入って来た私たちのあの日の姿を人々は何んと見たであろう。しかし子供と学び、子供と生きる私たちには、そこにいささかの不安もなかった。不思議なことに、いざ子供たちの前に立ったとなると、からだのどこからか湧然として勇気と確信が吹き上ってくる。そして1人1人の子供の肺腑に食い入るような気魂が発散する。いつの間にか、身につけたこの道の魂であろうか。(「教育という仕事」、『PTA会報』38号)
個性尊重――自主自立――自由平等、ただそれだけが、私たちのうえに輝く教育のともし火であつた。それが基本理念であった。いっさいの教育活動はこの根源から生まれた。そして両親と教師と街の人たち、それは子供たちの指導体制であった。
(「明星誕生ものがたり」から)
教育の原則は子供の個性を十分に伸ばしてやるところに終始する。1人1人の個性に即して教育の方法が工夫され、施されなければならない。人権としても人格としても子供の個性は絶対に尊重されなければならない。自分の個性を生かすことは人間の基本的な権利である。これを生かすには子供たちの自主性が生かされ、他律的自学自習の方針を採らなければならない。そこから創意・発見の学習態度が生まれてくる。
ここに照井の記るされた文章から、学園創設において求めていたもの、望んでいたものが何であったか、汲みとることができる。そして戦後4・4制に踏み切った折、照井は小・中の校長であった。校長としての照井は――「教師という仕事は、子どもが家庭や社会から無条件にとり入れた経験を整理して、一つの知識として編集しなおしてやるのが役目なのです。社会が目ざましい進歩をしているのに、いつまでも従来の方法で教育するのは教育者の怠慢というものです。私立学校は常に公立に対して啓蒙しなければならないのです。」といっていた。
教育の実践に終生若い情熱を燃やし、権威に抵抗する反骨精神と学問と教育研究にひたむきな探求心の持主であった。したがって実践の人、信念の人、教育の行者であった。子どもと学び、子どもと生きる真実な地味な道に貢献した人であった。
☆私学教育の実践に徹した私学の旗手――――
明星学園の創立当時、低迷していた日本の教育界や教育学者を、「因循と姑息を慎重とはきちがえ、常に時代におき去られがち」ときめつけ、独創的で熾烈な探求心は、官公立校の俗事的な、皮相な研究や実践を排斥した。まず成城学園において、ついで明星学園という終生の場で、徹底的な研究と実践の積みかさねられた20年、30年、40年の年輪は、教育の一般性のうえに誠実な根をおろした。
「どこでも、誰にも納得のいく真実の教育の樹立にあらん限りの精魂を傾けつくして、生きる世界を私学教育の実践に徹し、私学の旗手として、明星学園を守りとおした先生は、1人の真の私学人の典型でもあった。」
(「日本私立小学校連合会会報」41号、原田満寿郎記、昭和39年)
先生の書かれたもの、話されたものを読み、また聞けば「人権としても、人格としても、子供の個性は絶対に尊重されなければならない」という教育の大原則のうえに立ち、実践をふまえて割出された先生の教育理論・児童観・教育課程および学習運営論・教師論の独特の強昧と、子供と生き、子供と学んだ愛情と信念の毅然とした教師の姿が浮び上ってこよう。そして、しんの強い、あくの濃い1人の人間の昧――好きは好き、嫌いは嫌い、決して中間のない気骨のある風格。古武士的な節操。俗事にとらわれない瓢々とした人格。そして、在野的な批判精神で論陣を張る私学人の面目が……。