「短かった日々より」―戸坂嵐子(14回生卒業生)

大草美紀(資料整備委員会)

明星学園PTA会報 学園創立30周年記念号(1954年5月発行)より抜粋

短かった日々より

戸坂嵐子(14回生・女学部卒業生)
 私の明星生活は戦争末のわずか2年たらずである。1人の転校生は時たま女学生らしい詮索好きな眼にぶつかり退屈な授業もあって淋しい日を過ごしたこともあるが、(卒業から)9年ほど経ち、私は明星生活がどの様にか私にたのしく豊かな過去をあたえてくれたことに気づく日々がある。そんな気持ちから今は全てたのしい思い出となったことがらをたぐって、30年の貴重な時の刻みに一文をしるし、ささやかな御祝辞に代えたいと考える。
 入学して2日目の午後、窓の外に若いすすきが光る教室は快い眠気でしびれそうであった。
 「文語の上一段活用ぢゃ。――煮る。に、にる、にる、にれ、によ‥‥‥」黒い背広のK先生は知らん顔で読み進まれるが、もうろうとした私たちには上一段も上二段もさだかに見分け難くてただうらめしかった。やがてカランカランとM先生(愛称)の振られるひなびた鐘が井戸のそばで鳴って、あたりは途端に解放感に満ちあふれた。こんな風にして広々とした草むらと林に包まれた私の明星生活が女学校3年生―昭和18年(1943)9月からはじまる。
 リベラルなB学院からの転校生である私を、明星の人たちは好奇心をもちつつも大して気にとめず受け入れてくれ、私は10日経ち20日経つ中に難なく明星っ子に同化していた。
 けれど女学生らしく楽しく「よく遊び、よく遊んだ」のはわずか翌年の5月までで、一級上の人たちと一緒に私たちはやがて思い出すのもいとわしいあの“昭和飛行機工場”に動員されたのである。その日の来るのを知ってか知らないでか、その秋から翌春にかけて私は新しいお友だちとともによい日々を得ていた。その思い出はいつもあの美しい武蔵野の風景をバックにして私の胸によみがえってくるのである。絵具箱をかかえて写生から帰る11月の夕暮れには、上水のそばの広い畑にダリヤが美しく咲き残っていたし、武者さんのお宅で遊びすぎたある日、暗くなった池の面に晩秋の濃いもやがよどみ、橋でふいに白い水鳥が私たちのかたわらに浮かんだこともあった。(その橋で或る日、カバンを振りまわして鯉をおどかしているとき、友だちの手の勢いが余ってびしょぬれになって、浮いたカバンをよそのおじさんが呆れた顔ですくい上げてくれたこともあったっけ。)
 女学生らしく感傷的でそしてその流行ったように戦争にわけてもなく感激する、というには明星っ子はあまりにも明るく自由で、幾分伸び伸びしすぎていた。B学院から転校した私が学校の雰囲気にあまり抵抗を感じなかった理由はここにある。けれどこうした明星気分の故に、楽しかるべき最後の一年を学徒動員によって、いばり散らす配属将校や、工場での10時間近い作業という現実につきあたって、他校の女学生よりもっとみぢめな気持ちで過ごさなければならなかった。私は取り返すことのできない、こうして過ぎた大切な時間を本当に残念に思うけれど、それまで当たり前のように受け入れてきた明星のよさにふいに気がついたのは、そうした或る一日である。私は同じ工場にいるT女の人たちを探していたが、或るお昼休み、B学院の同級生であったN子ちゃんたちとやっと会うことができた。カーキ色の作業服を着たNちゃんはしばらく泣いている中に「動員になってまだよかったわ。T高女に転校して私たちほんとうにみじめだったのよ‥‥‥」と言う。B学院が文部省の閉鎖処分にあったとき、T高女は編入情実校となり、40人ほど移って1クラス作られたが、つい昔の気分を出して騒いでは怒られ、お話をねだって怒られ、おさげをほどいて怒られ、数学ができなくて怒られ(これは私も同であったが)みんないじけ切って、わずか半年のうちに残った人はわずか10名たらずになったという。動員になったとき、女子工員寮の一部にNちゃんたちは住むことになったが、それでも学校でしばられるより余程いいそうな。明星ではその頃、福生という町の農家を借り、平林先生の叔母様にお料理をお任せして家庭的な愉快な寮を作っていたが、それでも学校に戻れたらと誰しも思っていた頃である。別れる時「けっきょく嵐子ちゃんがいちばん幸せだったのよ」とNちゃんが言った。B学院から明星へ――もちろん転校してずいぶん気分は違ったが、明星のほうが健康でそして足が地についていたので、私は私なりにあまり矛盾も感じないで、明星生活に順応し、そして極めて楽しかった。私は学校というものは私を自由に生長させてくれるものだというふうに思っていたから、明星の明るさを当たり前のように受け入れていたのに、このときやっと気がついたのである。
 これが明星のよさであったというわけである。後年、都立高女を卒業した多くの人と知り合って、戦時中の学生生活が如何にも規則づくめで思い出すのも嫌」と聞かされたとき、私はいぶかしそうな相手に「吉祥寺にある明星学園です」と所在地まで言わなければならないけれど、明星生活とは素晴らしいものだったとその都度気がつく。戦争中に与えられた楽しい自由な学校生活。これは戦後考えても想像もつかないほど貴重なものではなかったかしら。
 傷つくことなく、いためつけられることなく、伸び伸びと生長させてもらえた――とこれは卒業生の誰もが、先生たちに抱く感謝の気持ちである。わずか2年足らずいた私でさえ、そう思って明星が大変なつかしいし、そのなつかしさを支えるように、変わりつつ、新しく生まれつつ、いくつかの友情が私の生活を支配している。『薔薇は生きている』※の古い時代より、伸び伸びと歴史を誌しつづけてきた明星よ。このつたない一文が編集部の方々にわたる頃、福生の寮で生まれた10人ほどのお仲間は某所に集り、悪童気分をよみがえらせて思い出話に花を咲かせ、明星を出てよかったわね、とささやかに30周年をお祝いしているであろう。
※『薔薇は生きてる』‥‥‥肺結核のため16歳で他界した山川彌千枝の遺稿集。彌千枝は成城小学校6年生の夏に発病。休学して療養ののち、1年遅れで明星学園高等女学校に入学。明星の女学部4回生として楽しく過ごすも5月に再発し、療養生活のなかで文章を書き遺した。
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