赤井 米吉 (あかい よねきち)

原田満寿郎

赤井米吉、あかいよねきち
1887(明治20)年6月1日生まれ、1974(昭和49)年2月26日死去



学園創立者。
創立同人の一人。
学園長・理事長・小学校長・女学校長
在職期間 1924(大正13)年~1973(昭和48)年

哲学者 西田幾多郎(にしだきたろう) は親戚関係にあたる(西田の母と赤井の祖母が姉妹)。

以下、『明星の年輪―明星学園50年のあゆみ―』(1974.11.3発行)、『明星の年輪―明星学園60年のあゆみ―』(1984.5.13発行) から転載

1887(明治20)年6月1日、石川県石川郡野村字法島(現金沢市法島町)に、父・山本太右衛門、母・はつの三男として生まれた。
少年期に金沢市川上新町のメソジスト教会の授産所に開設された日曜学校に通い、1901年に石津町教会にて毛利官治牧師により洗礼を受け、晩年まで教会に通う基督者であった。
1902(明治35)年10月に石川県尋常師範学校乙種講習科を修了、11月より石川郡犀川村駒帰尋常小学校準訓導に命ぜられ、二又分教場に赴任する。これが赤井の教員としての出発点である。
1903(明治36)年、準訓導生活に別れを告げ、石川師範学校入学。師範在学中、内村鑑三島崎藤村に書を送る。藤村からは懇切な返事をもらい文学を志すきっかけとなる。
1907(明治40)年、師範卒業に際し、将来の希望について「私立学校の設立」と書き、高等師範の英文科入学を希望したが受験の結果は不合格。石川郡上金石尋常高等小学校訓導として赴任し高等科3年を担任することとなる。赤井の学級はきわめて活気に満ちたクラスであったが、町長をはじめ街の有力者はこの異色の教師を白眼視した。ここでの教員生活は1年だったこともあり、問題が表面化することはなかった。また、のちに赤井の妻となる野里つるは、当時の高等4年女児組に在籍していた。
翌1908(明治41)年、広島高等師範学校予科に入学、多くの師友に恵まれる。英文学の研究にも力を入れ、アーヴィング、T.S.エリオットの著作のいくつかを全訳し、バルザック、ツルゲーネフ、トルストイの英訳本を読んだ。また、英語劇に力を入れ、講談部長にも就任した。キリスト教青年団体の光塩会に加わり栗原基先生の指導を受けるなど、その活動も多彩で精力的であった。
この年8月、大叔父である西田幾多郎の仲介で赤井家の養子となり改姓。
1909(明治42)年、広島高師本科英語科に進学。予科に入学した小原国芳(当時の姓は鯵坂)と出会い生涯の友となる。
1910(明治43)年、夏休みに山口県秋吉に本間俊平先生を訪れ、1ヵ月滞在して労働と信仰の鍛練と教えを受ける。その中で赤井は、教員と文学創作の二足のわらじの生活を夢見ていたことに厳しい自己批判を覚え、教師としての生活に身も心も統一しようと決意する。
1912(明治45)年、広島高師を卒業。愛媛師範学校教諭に赴任。校長山路一遊から深い感化を受け、教育問題を語り、ロックの『教育論』、ルソーの『エミール』、ペスタロッチーの『ゲルトルート』などの古典に触れた。後に明星学園創立の同人となった山本徳行は、この時代の教え子である。5月には同校の舎監を兼任。榎町教会に加わり日曜学校校長となり、佐々木国之助牧師より教えを受ける。8月には許婚であった野里つると結婚、9月に松山に帰り家庭を持つ。
1916(大正5)年、福井県立小浜水産学校教諭兼舎監に転任。漁村であった小浜では春に鰯の時期を迎えると、学校生活も労働を中心にして展開していた。漁師気質で気の荒い生徒たちも実習に出たときは生き生きと活躍していた。赤井は、そういう労働の事実と教科指導を結びつけた場合、生徒の眼が授業中にも生き生きとしてくることを知った。同年10月にはスポルジョン説教集を栗原基先生と共訳し出版。
1919(大正8)年5月、バッカム『神秘主義と現代生活』を翻訳し出版。6月、福井県立武生中学校教諭に転任。校長は教育に対する情熱を持たない小人物であり、生徒と教師集団の関係もまるで仇同士のようだったという。教科書もいかにも味気なく、このとき赤井は「出口のない袋小路」の中で、教師の頽廃と形式主義教育に対する反発を感じ、新たな天地を求めていたようだ。
この時期、大正デモクラシーの思潮は教育界にもしだいに顕著になり、1917年成城小学校設立、翌18年には鈴木三重吉が『赤い鳥』を創刊する。小原国芳が成城の主事となり、『教育問題研究』を出すと、赤井も投稿の機会を与えられた。その一方でスペンサーの『教育論』の翻訳を進めていた赤井は沢柳政太郎、小原国芳から成城へ招かれたが、秋田師範学校付属小学校主事としての招きもあり、澤柳と相談の結果、1921(大正10)年9月、ひとまず秋田へ赴くことになった。これに先立つ4月には教育擁護運動のために小原国芳、下中弥三郎の両氏を福井に招き講演会を開催。これをきっかけに下中氏と相識る。
秋田師範では照井猪一郎との出会いがあったが、校長の官僚的態度に反発を感じ、半年で辞任。1922(大正11)年5月、私立成城小学校に幹事として着任すると、愛媛師範時代の教え子の山本徳行、秋田師範付属小の照井猪一郎というすぐれた教師を成城に招き、主事小原国芳とともに、沢柳政太郎をささえて新教育運動の陣頭に立つ。6月、欧米教育視察から帰国した沢柳政太郎、小西重直長田新から紹介されたドルトン案の翻訳に取り組み、『児童大学の実際』(1922.10)、『児童大学の教育』(1923.2)を出版しドルトン案の日本への紹介につとめた。
1924(大正13)年2月、成城小学校職員一部の赤井排斥運動、小原主事との対立がおこり、新たに自分の学校を創ることを決意する。3月には『ドルトン案の理論及実際』を出版し、4月に来日したドルトン案創始者のヘレン・パーカースト氏の通訳として東京・仙台・富山・金沢へ同行する傍ら、新しい学校の計画を進め、5月に明星学園を開校、校長となる。同人は照井猪一郎・照井げん・山本徳行。創設資金は成城小学校で照井が受け持った児童の父で、朝鮮の永中金山を経営していた茶郷基氏に援助を仰いだ。
1928(昭和3)年明星学園中学校・高等女学校開校、校長となる。
この間『ドルトン案と我国の教育』(1924.9)『個人学習とドルトン案』(1925.4)『性愛の進化方向』(1931.12)『新しき教育計画のために』(1932.7)など訳・著述出版す。また、しばしば満州・朝鮮に渡って新教育の振興につくす。
1936(昭和11)年、英国で開かれた第7回世界新教育会議に日本の代表として出席、つづいて欧米諸国の教育を視察する。太平洋戦争が始ってからは大日本教育会教学動員の仕事に積極的に加わった。
1945(昭和20)年終戦、間もなく連合軍司令部教育顧問となり、新しい教育方策の樹立に参画する。また、教育制度刷新委員会委員となる。
1946(昭和21)年5月、郷里金沢に女子専門学校創設。
同年11月、教職適格審査委員会にて不適格と判定され、明星学園長・金沢女子専門学校いっさいの教職を辞任する。
その後数年間は著述に専念、『男女共学の諸問題』『現代教育問題辞典』『子どもへの理解』『知能検査の意義と方法』『ガイダンス』『精神衛生』ウォッシュバーン『生きた教育哲学』『道徳教育の反省と再建』ウォッシュバーン『新教育の生かし方』など訳・著述出版す。
1951(昭和26)年8月、教職員適格再審査会において「適格」と判定、10月3日追放解除となり、明星学園理事長に復帰し、明星学園30周年記念式典を行い学園振興10年計画を樹立推進する。また、かねて計画していた幼児教育のための「ふじ幼稚園」をおこし園長となる。
1956(昭和31)年、武蔵野市教育委員長となり、ついで東京都・全国の教育委員連合会長に就任、地方行政の振興につくす。
1958(昭和33)年、明星学園の理事長を辞め理事となり、1965(昭和40)年に学園長となる。
1974(昭和49)年2月26日午前8時10分永眠。病名腸出血。享年87(満87歳2ヵ月)。


明星学園創設
赤井米吉は、明星学園創設に対して、どのような期待と願いをもっていたのか―――

大正期の教育改革の中心的実験校成城学園で、大正11年に幹事となり、主事の小原国芳とともに活躍したが、間もなく小原とならびたたずということになって別れた。
このころ赤井米吉が日本の教育界で注目され著名になったのは、アメリカのH・パーカーストの創案になるドルトン・プランという自由進度学習の紹介者としてであった。その赤井米吉が創設した明星学園においては、ドルトン・プランの限界を批判的にのりこえようとしていた。それは教育の方法と教育の内容とを結びつけて研究することによってきりひらこうとするものであった。明星学園が創設された翌年、大正14年の秋、新教育研究会で国定教科書とドルトン・プランについて次のように述べている。
「国定教科書の範囲で果してどれだけ行われるものでしょうか。もともと、国定教科書は今日いわれているような意味の児童そのものの生活を指導していくという考えで作られているものではありません。一日も早く大人の生活を修得せしめよう、記憶せしめよう、授けようとしてできているのですから、それを用いながら自学自習も生活指導もあったものではないと思います。ドルトン案の如きは、教科課程はどうでもよい。それを習得する方法を考究したのだといっています。それはドルトン案そのもののためには強味であるかもしれませんが、児童教育の方案としては大きな欠点であろうと思います。われわれが教育の諸問題を現実に考えることになると、どうしても教材を研究せざるをえないと思います。そこまで具体的にならなければ、新教育も結局頭の内だけのことで終ると思います。」

万人労働の教育
大正自由教育の退潮期に自由教育の成果に立脚しながらもそれをのりこえようとして、新たな思想的基盤をどこに求めたか、ということが私たちの関心の的になります。そうしたとき、赤井先生が次のように述べていることが注目されます。
「社会の前途を考えても私はこのままで進むものだとは考えられません。すなわち、遊惰階級と勤労階級、消費階級と生産階級が、分離対立していくような社会相は遠からず非常な混乱をひき起すにちがいないと思います。しかしその時に苦しめられるのはこれまで特権を誇っていた階級でしいたげられていた人たちではないと思います。こんなようなことから、私は自分が教育している比較的富裕な家庭の児童を見ると先きが心配になってならないのです。これが直接私をして労働教育の問題を考えさせた原因の一つです。将来の道徳教育の課題は公正ということであろうと思います。あるものは働き、しかも十分に酬いられず、あるものは遊び、しかも限りなく与えられる、ということは公正の理にもとることです。すべての人が自営自活しなければなりません。人々がその天分に従って各々自らの能とするところに向うのはよろしい。しかし、その間に上下・貴賤の別はつけられないものです。いわんや人を己が生活の具とすることは許されないのです。この公正の理念が十分に発見されなければならないと思います。そしてこれを実際生活に行ったものは万人労働ということであろうと思います。したがって、将来の教育においては、労働がもっともっと重んぜられ、そこで生産に関する教育を行うとともに、体験による道徳教育、公正の教育が行われなければならないと思います。」

ここには社会の歴史的発展動向に対する赤井の鋭い洞察がありますし、社会主義につながる教育のあり方が、「万人労働の教育」ということばで示唆されています。社会変革の展望と労働の教育の必要性を結びつける論理は、ルソーの「エミール」にももりこまれていますが、赤井もルソーの思想的影響をうけていたと思われます。しかし、こうした洞察や展望のもとで教育の実践をすすめていくことは、明星の教師たちにとって容易なことではありませんでした。歴史の発展をささえ、かつになう階級的主体、つまり、ひたいに汗して働く人たちからへだたったところでの構想を具体化していくための条件が著しく欠けていたのですから。
(中野光教授 『小四・教育技術』 昭和46年4月号)


『風と共に去りぬ』の紹介
日本の新教育が一時に花開いたのは大正の中期で、「教育学術界」の尼子止水君が「八大教育思潮」講演会を主催した大正10年ごろがその頂点であった。赤井君は大正11年に秋田から出てきて、成城学園の幹事となり、小原国芳君の相談相手となってその教育に参画したが、間もなく小原君と別れ、自ら明星学園を創設した。大正13年5月のことである。
それはちょうど私たちが「池袋児童の村小学校」を創設したのと1月違いであった。そのころから、小原・赤井・志垣は鼎立する同志であり、またライバルでもあった。しかし始めに志垣去り、赤井また戦後明星を離れること5ヵ年、小原ひとり今日の大をなしている。そのころの日本教育界は群雄乱立、百花斉放、志垣の児童の村小学校を最左翼(赤の意味ではない)として、理論に実際に、まことに目ざましく、溌刺たるものがあった。木下竹次の奈良女高師付属小における学習法、及川平治の明石師範付小における分団式教授、手塚岸衛の干葉師範付小における白由教育などのように官公立の学校においてさえ、思いきった革新が断行されたものである。だからそのころ群起した私立学校では、私たちの児童の村小学校を始めとして、途方もない主張や実践を行ったものも少なくなかった。それらの中にあって、赤井君はいつも中正な立場をとった。もっとも急進的であった私は、いささか生ぬるいという感じをもつものであったが、その根深い宗教的信念の強さと、高く広い世界的視野にたつ識見には、教えられることが多かった。あれから半世紀、数ある教育論の外にも、赤井君には文明批評や芸術作品などについても、すばらしい述作があり、私にとってはもっとも好い道案内者であった。その中でも永く忘れられないのは,いち早く『風と共に去りぬ』を紹介してくれたことや、ラッセルの「原子時代に住みて」を訳出したことなどである。およそそのようなことを念頭において、赤井君の論文を読むと、改めて君の豊かな思想と真摯な教育観に心打たれることが多い。
(赤井米吉著『愛と理性の教育』の解説-志垣寛から)


公職追放
1936年英国ロンドンの郊外チルテナムで開催された第7回世界新教育会議に出席し、つづいて欧米諸国の教育を視察する。欧米視察を転機として急速にナショナリズムの立場をとり、1940年にはついに自由主義との訣別を主張する。時代の流れに傍観的態度はとらなかった。大政翼賛会傘下の大日本教育会(帝国教育会の改称)教学動員の副部長となる。明星学園の卒業生も続々と戦線に立った。教え子が出陣した時、「これの身は父母の身ぞ父もともない母もともない気負いゆくべし」とよんで見送っている。実母を空襲のため防空壕の中で失う。「80年1日安らうこともなく母逝きましぬ敵機のにえと」戦争に積極的に協力しただけに戦後においての打撃は大きく公職追放となる。
1945年の秋、前田文相から連合軍総司令部顧問として教育再建を要請された。それはかつて大正期から昭和初期の間、新教育運動・郷土教育運動において輝かしい足跡が,戦後教育の発展に寄与する歴史的意義と遺産継承の点に注目されたことであった。 しかし、1946 (昭和21)年11月4日次の判定理由書の内容による教育追放令によっていっさいの教職から退くことになった。「戦時中、時局に迎合して著書『新世界観と教育』等に於て所謂、日本的世界観に基く教育を強調し、全体主義的教育理論を鼓吹した。共同省令別表第1、第1項第6号後段の規定に該当。教育職員適格審査委員長 山崎匡輔」あえて異議をとなえず教職を去った。
後年、この時の事情を次のように述べている。
「私は戦前にしばしば警視庁の特高刑事のお見舞をうけた。岡・三木・戸坂といった左翼学者が訪ねてきたからであろう。満州旅行をした時には、大連の水上署は私の乗船をとめようとしたし、欧米旅行から帰った時には横浜の水上署が私の下船をとめた。私は何かあやしいものだったらしい。ところが、戦争がすむと『超国家主義者』ということになって『追放』を命ぜられた。追放後のアーロウッド少佐は私の助命運動をするといったが、私は辞退した。私はたしかに追放令にひっかかるような行動をしているのだから、多少の知りあいの故をもって助命されるべきものでないと思った。あまたの教え子が“先生いってきます” “よし、やってこい。万歳”と送り出し、その中の28人もが帰ってこないのに、“わたしは平和主義でありました”ということはできない」追放満5ヵ年間は、もっぱら著述に専念、7冊の単行本を著わした。
 『子どもへの理解』(学芸図書出版)
 『知能検査の意義と方法』(理科教育振興会)
 『ガイダンス』(河出書房)
 『精神衛生』(学芸図書出版)
 ウォッシュバーン著・『生きた教育哲学』(訳)」(春秋社)
(『教委研究』1961年3月号から)


☆戦前の明星における赤井・照井の評価
『大正自由教育の研究』の著者、和光大学の中野光教授は、赤井・照井の戦前の明星学園での主張と実践を次のような内容で高く評価している。
「明星学園の教師たちは、教材の自主選択・編成という至難の課題に、たちむかっていった。すぐれた教材と思われるものを謄写版でプリントし、子どもの受けとめ方を調べてこれに修正を加え、次の学年の教育でさらによりよいものにしていく。という実践をつみ重ねた。
さらに、注目に値するのは明星の教育は教科外活動がとりわけ大事にされていたという。赤井も照井も、日本における“学校劇”の開拓者である。脚本づくり・配役・人選・練習・発表という一連の活動を展開する過程で、子どもたちが集団的に成長をとげていくことに大きな価値を認めていた。とくに照井の場合には自ら脚本を創作し、上演にあたっては、すぐれた指導を試みていた。個性尊重・自主自立・自由と平等、この三つが明星学園の原則であったから、教材外の諸活動はこれを実現していくための重要な場になったのだ。
学枚劇については当時にあっては岡田文相はじめ教育行政当局は、その教育的意義を認めず、かえってそれに白眼視と圧迫を加えるような状況であった。戦前、国家の教育内容に対する統制が今日よりもきびしかった時代にこうした実践や主張は『抵抗と創造』の教育であり、この意味は戦後の民主教育にとっても貴重な遺産であった」と述べている。
研究実践の成果の一つに大正15年の4月、集成社出版の国語の『新読本』がある。これは照井が成城時代からはじめていた試みを、照井げん・霜田静志・大高義一らが深化させてまとめあげたものだ。当時、国語の国定教科書では「ハナ ハト マメ」という単語の羅列から始まっていたのを子どもの経験や心情に基づいて、韻律的な反覆を重要視する立場から「ハナ ハナ ハナヤハナ」というような詩教材を創り出したのであった。こうした実践はやがて昭和8年に改訂される『小学国語読本』の編集において採用されていくのである。

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