寒川 道夫 (さがわ みちお)
大草美紀(資料整備委員会)
寒川 道夫 さがわ みちお

明星学園在職期間 1948年4月-1970年3月
略歴
〈出典: フリー百科事典『Wikipedia』〉新潟県中蒲原郡新津町(現・新潟市秋葉区)に教育者の長男として生まれた。1921年三島郡大河津村(現・長岡市)五社小学校卒。1926年長岡中学校(現・新潟県立長岡高等学校)卒。1927年古志郡田井尋常高等小学校(現・見附市立田井小学校))の代用教員になる。1930年高田師範学校卒。同年古志郡
1941年治安維持法違反(生活綴方事件)で2年間獄中生活を送り教職を追われた。名古屋での工員生活を経て、1948年教職復帰。東京の明星学園小学校に勤務する傍ら、児童文学作品を発表。同校理事、校長、事務局長を経て1970年退職。
1975年三鷹市長選に立候補するも落選。
著書
〈出典: フリー百科事典『Wikipedia』〉
- 『母と教師のための作文教室 小学一年生』(文化研究社) 1952
- 『文字とことばの教室 6年生』(三十書房) 1955
- 『書くこと 国語と文学の教室』(福村書店) 1956
- 『きょうだいがっこう』(青葉書房、学級図書館 1年) 1957
- 『ねずみのおすもう』(川崎春彦絵、青葉書房、学級図書館 1年) 1957
- 『みんないっしょ』(青葉書房、学級図書館) 1958
- 『国語の新しい授業』(明治図書出版、新しい授業叢書) 1960
- 『文字とことばの力をのばす 6年生』(盛光社) 1966
- 『五色のしか』(鈴木義治絵、国土社、絵本むかしばなし) 1976
- 『人間教師として生きる』(新評論) 1978
- 『児童詩教育論』(あゆみ出版、あゆみ教育学叢書) 1979
- 『文学教育論』(あゆみ出版、あゆみ教育学叢書 ) 1979
共編著
〈出典: フリー百科事典『Wikipedia』〉
- 『山芋 児童詩指導記録とその作品 大関松三郎詩集』(百合出版) 1951、のち講談社文庫
- 『お父さんを生かしたい 平和を叫ぶ子らの訴え』(編、青銅社) 1952
- 『ぎんやんま 小学生の詩集』(筑摩書房、小学生全集) 1955
- 『わたしたちのことばと文字』(大久保忠利共編著、アルス、日本児童文庫) 1955
- 『子どもをのばす生活綴方』(東井義雄, 佐古田好一共著、明治図書出版、教師の仕事) 1957
- 『生活綴方的教育方法の発展』(大田尭共編、明治図書出版) 1957
- 『生活指導問題講座』(宮坂哲文, 春田正治共編、明治図書出版) 1958
- 『作文の見かた育てかた』(編著、明治図書出版) 1961
- 『日本児童詩集』(江口季好共編、太平出版社) 1971
- 『いばらの道をふみこえて 治安維持法と教育』(大槻健, 井野川潔共編、民衆社) 1976
論文
〈出典: フリー百科事典『Wikipedia』〉
- 「農村文化指導出発書」(『教育科学研究』第2巻10号) 1940
受賞
〈出典: フリー百科事典『Wikipedia』〉
- 日本児童文学者協会新人賞(1952)『鷹の子』さがわみちお名義
関連書籍
〈出典: フリー百科事典『Wikipedia』〉
- 『『山芋』の真実 寒川道夫の教育実践を再検討する』(太郎良信、教育史科出版会) 1996
明星学園での寒川道夫
1948年4月、照井一郎校長時代に明星学園小学校の教員として就職。4年生(24回生)を担任し、以降小学校の担任と国語科の教科研究を続けた。
1959年に4・4・4制が開始すると、担任していた6年生(33回生。3年生から持ち上がりで担任)が中学年部8年生を終える1962年3月まで引き続き受け持った。中学生の担任をしたのはこの学年のみだった。
同年4月から低学年部の担任に戻る。
1964年2月に照井猪一郎小中校長死去し、上田八一郎高等学校長が全校校長を兼務すると、寒川は低学年部の校務主任となり担任から外れる。翌年、上田も死去し、寒川は1966年度から小学校校長となる。学級の子どもたちを相手に駆け回ることを信条としてきた寒川にとって、校長職を引き受けることは不本意だったことが想像できる。
1970年3月、退職にあたってPTA会報『道』No.84(1970年3月15日)に残した文章「星章をはずして」に寒川の当時の心境が描かれている。
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