恩地 邦郎 (おんち くにお)
大草美紀(資料整備委員会)
恩地 邦郎、おんち くにお
1920年(大正9)ー2001年(平成13)
卒業生(5回生)で、旧制中学校、高等女学校、新制高等学校、新制中学校の美術科教員。
版画家・装幀家の恩地孝四郎の長男。
明星学園中学校卒業後、東京美術学校(現東京藝術大学)に進学し、卒業後に明星学園中・女学部の美術科教員となる。
在職期間 1942年~1986年
音楽、演劇にも造詣が深く明星の子どもたちの演劇活動を支えた。
のちに新制高等学校の校長をながく務めた。
「功労?」
恩地邦郎(中学校・高等学校教員、5回生・中学部卒業生)
4月には1年の担任だから書けと言われ、今度は表彰されたから書けといわれ、編集部に入る前は気楽に書けたものが、数日後の劇を控えて頭につっかえてしまう。これが功労というものなのかな。
20周年記念式のとき、10年勤続者の表彰があり、よくもまあ勤められたものと卒業してすぐ母校に戻ったものとして感じ入ったのであったが、今度は自分の番になった。
なぜこんなことになったのか考えてみると、何時も明星のことがいちばん気にかかっていたというより他はない。式典の日には何年ぶりに合う友人、古い先生、昔のお母さん方、それにいつものおつきあい、あの人もいろ、あゝこの人ともゆっくり話したいなどと思っている間にばたばたと済んでしまった。
しかし午前の慰霊祭に学園の物故者功労者と共に、戦死した弟・友人が合祀されたことがうれしいことでもあり、感動的であった。既成宗教によらぬ、神式というより新式で行われたのもよかった。
同期生でもとくに気の合った下中(達郎、1945年5月4日戦死)、江川(晴光、1945年7月1日戦死)両君が亡くなったし、フクチン、オヂ公等と卒業生として劇をあの舞台で演じたり、男声のカルテットのメンバーであったシミケンとマサベーも戦死してしまった。
シミケンとは清水育夫君(1944年12月戦死)のことで独立の画家清水登之さんの一人息子であったのに、フィリッピン沖海戦とやらの犠牲となって、それで気を落とされたのであろうか、間もなく登之さんも亡くなられ、お母様の心中はいかばかりかと思いながら御無沙汰ばかりしていたが、あの日わざわざ上京されていたのにお詫びもできなかった。
弟マサベー(恩地昌郎、1945年8月6日戦死)は卒業間際、教練をさぼって芝居をやって停学を食らったが、それでも勉強は一応やっていたと見えて、主計見習尉官に合格して家族は喜んだ。(当時、主計になるということは、戦死することは少ないということもあった) 中尉任官のとき、神奈川県の相模工廠に勤務し、外地や船に乗った人の羨望のまとになっていた。それが終戦の7日前、機銃掃射の一発でたおれてしまった。そんなものなのだ。個人や家族が個々に安全を願ったり、よろこんだりしていても、戦争という物理的悲劇的現象は、有無を言わさず押し流していってしまう。そしてそれらに対する抵抗は、個人の願望やら、祈りやら、不平のつぶやきというものは全く何もならないのだと、思わされたものだ。
明星30年の歩みをふり返りつつ、これからの子どもたちにあの不幸をふたたびくり返させぬために、わずかでもよいから手を取り合って努めることが、せめて大人の、前の戦争悲劇に対し、何もなし得なかった大人の贖罪ではないだろうか。