霜田 静志 (しもだ せいし)

大草美紀(資料整備委員会)

霜田 静志/利平 しもだ せいし/りへい

1890年7月9日-1973年1月28日
教育者、教育学者、美術教育者。
埼玉県出身。本名・利平。1912年東京美術学校卒。小・中学校教師を経て、1920年東京帝国大学で美学・心理学の研究をする。1928年英国へ留学、教育家A・S・ニイルに師事。帰国後、主婦之友社で児童相談を担当。のち、井荻児童研究所を設立し所長となる。多摩美術大学教授、長野女子短期大学教授も務めた。1968年『ニイル著作集』で第5回日本翻訳文化賞受賞。堀真一郎國分康孝が門下にいる。

明星学園では、創立期の教員。専門教科は美術。前任校は成城小学校。
創立2年目の明星学園で1年生(4回生)を担任し、英国への留学期間を挟んで、同学年が小学校を卒業するまで担任した。
在職期間は1925年(大正14)~1932年(昭和7)。
2人の子どもも明星学園に通った。長男
は物理学者の霜田光一(6回生)。

写真:明星学園4回生の子どもたちと霜田先生

 

霜田靜志『芸術を基調とせる低学年の教育記録』

霜田靜志は明星学園創立の翌年、1925年(大正144月から1931年(昭和63月まで、小学校第4回生の教育を6年間担当した。そのうち第12学年における教育実践は、つぎの2冊の著書に詳細に記録されている。

A.『芸術を基調とせる低学年の教育記録』(平凡社、1927310日発行)

B.『低学年の教育記録』(刀江書院、1935415日発行)

BはAの改訂版で、教育記録の部分はほとんどAと同じであるが、「美及び芸術の本質」と「芸術教育」のページが削除され、新たに「父母のために」が加えられている。

ここでは、まず、そのような実践をするに至った経緯を略述する。

霜田靜志(本名利平)は1890年(明治23)、埼玉県に生まれた。赤井・照井より3歳の年少である。東京美術学校(現東京芸術大学)図画師範科を卒業し、熊本県山鹿高等女学校と4つの小学校を兼任。肺患による4年間の闘病生活ののち、埼玉県立女子師範学校の教壇に立った。ついで1921年から成城中学校の図画科嘱託となり、翌年から成城小学校の図画手工科嘱託を兼ねた。それと並行して東京帝国大学文学部の聴講生として美学美術史を専攻している。この頃から霜田の美術教育に対する研究は大きく進んだ。

当時すでに山本鼎(かなえ)によって自由画教育運動が提唱され、沈滞した図画教育に爆弾が投じられていた。霜田はこの運動に共感を覚えながらも、満足しきれぬものがあった。――自由画教育は図画教育に革新をもたらしたが、所詮は絵を描くことにほかならぬ。しかも自由画といいながら、ひたすら風景と静物の写生に終始している。これは子どもの絵としてそのまま肯定しうるかどうか疑問である。アメリカなどでは、子どもの生活環境に現れるあらゆる事象を描かせることが盛んだが、これは風景・静物以上に子どもの表現の興味の対象であり、心理的に見ても重要なものである。図画教育においては、風景・静物の写生ばかりに傾くことなく、もっと子どもの心理に合った生活表現、童謡・童話等の絵画的表現を大いにさせるべきだ――と霜田は説いた。

図画教育をこのような広い意味の美術教育と考えるようになった霜田は、この教育は美術の教育であるよりは、美術による教育であり、美術による人間教育であるという立場に進んだ。この立場からは、もはや絵画や工作だけが問題ではない。さらにそれ以上に、音楽も、童謡も、子どものつづり方も、劇や舞踊も問題になってきた。

こうして、霜田は総合的な芸術教育運動に乗り出した。幸い澤柳政太郎が理解してくれていたので、澤柳を会長とする芸術教育会を組織し、1923年(大正134月、機関誌『芸術教育』を創刊した。顧問には坪内逍遥、正木直彦東京美術学校長、有島武郎、島崎藤村などを迎え、同人も多彩な顔ぶれであった。しかし、この年9月の関東大震災で大きなダメージを受け、『芸術教育』も最初の予想ほどには伸びていかなかった。なんとかして存続させようと努力をつづけたが、ついに廃刊のやむなきに至った。

霜田は、振り出しにもどって教育の実践に徹しようと思った。この決意を当時創立したばかりの明星学園の赤井園長に話したところ、赤井から「それだけの考えがあるなら、ぜひ明星に来て君の思うとおりにやってくれ」と言われた。そういう経緯で小学校1年の担任となり、6年間の生活を共にすることになったのである。

霜田靜志は、芸術教育を理解せず知育のみが教育であるように考える風潮を批判した。

「国語や算数の出来る子どもがいつも優秀な子どもと考えられ、図画や工作や音楽のようなものの上手な子どもが、どれほどうまくとも、国語・算数のようなものが出来なければ、劣等な子どもと考えられやすい。これははたして何によるのであろうか。いうまでもなく、これは大人の功利的見地からの判断である。文字を多く覚えれば処世上どれだけ得だとか、算数がよく出来ればどれだけ便利だとかいう、全く功利的見地からこれを考えるからである。真に児童の発達の本質的方面から考えるのでなく、現代の大人の社会から見ての功利的見地でのみ判断しようとするがためである。」(『低学年児童の教育』)

霜田が求めたものは「大人の功利的な見方を捨てよ、そして純真な子どもの心に培え」ということだった。国語教育においても、芸術性・文学的領域の重要性を主張した。低学年への指導方法では、学習を詩から始めたり、お話に絵を利用したりもしている。算術の学習も物売りごっこのように遊戯化され劇化される。「私たちの学園では、1年では本当の算術らしいものはやらないが、児童の生活の中に現れた数の問題を取扱い、遊戯の中から数の経験を導き出すことにしている。」(同上)

理科教育においても、従来の物を機械的・物質的にのみ扱う傾向を批判した。一輪の花を見るにしても、分解的に見るだけではなく、総合的に見ることの重要性を主張した。「花弁が何枚だ、雄蕊が何だ,雌蕊がどうなっていると、詮索するだけではいけない。花そのものを知るためには、その成り立ちを調べると同時に、美しく咲いている花そのものの姿を、そのままに見、そのままに受け入れる必要がある。‥‥‥切れ切れの物質と見ずして、花そのものを一つの生命として見る。そこにわれわれは尊い価値を見出す。言わばこれは芸術的態度によって物を見ていくことである。」(同上)

美術教育では製作だけではなく、作品を鑑賞させることにも力を注いだ。児童に絵を描かせた後は必ず展示し、どれがよくできたかを比較判断させた。もちろん鑑賞の対象は児童作品だけではない。芸術的に優れていると思われる童書家の作品から始め、有名な美術家の名作にも触れさせようとした。「私はお話による美術鑑賞の教育を試みている。作品を示し、その絵の内容を語り、作家の生活を語ってきかすと、尋1の児童でも教師の取扱い次第で、相当に興味を持って聴くものである。」(同上)

最後に訓育の問題について彼の主張を記しておきたい。学園では1年から3年まで、修身科をおいていないが、児童はお談義めいたことを言われなくとも、日々の生活でしだいに社会生活意識が発達し、しだいに自己を知り、協調の精神を尊ぶようになるのだと言う。「訓育は決して、子どもに徳目を教えてこれを守らせて行く方法によって徹底するものではない。何々すべしと教えてこれを守らしむべく強制して行く方法は、教育としては拙の拙なるものである。子どもには子ども同士の社会生活の中から、お互いに守るべき道徳を学ばせ、これが必要を感ぜしめて、これを実践せしむるよう指導すべきである。私はこの立場から子どもの社会性を発達せしめ、その道徳性を高めることに専ら力を尽した。」(同上)

受持ちの子どもらが4年生になった年、1928年(昭和34月から10月まで、霜田はヨーロッパに出かけた。チェコスロバキア(当時)のプラハで開かれる国際美術教育会議に出席のためであった。

この渡欧によって、霜田はいままで文献によってのみ知っていた外国の美術教育にじかに触れることができ、書物や文通によってのみ知っていた学者、教育家、美術家等と親しく語る機会を得た。また、それ以上の大きな収穫は、国際美術教育会議への出席に先立ってイギリスに渡り、徹底した自由と自治で知られるA..ニイル(*)のサマーヒル学園を訪ねてニイルに会い、1週間子どもたちと生活を共にして、その教育の実態を見とどけたことであった。

霜田はヨーロッパからの帰途、35日を要する船旅のあいだに、ロンドンで買い求めてきたニイルの新著『問題の子ども』を熟読した。一節一節に心をうたれ、この本の翻訳を決意した。『問題の子』の翻訳は、霜田自身の研究を児童心理と精神分析へと方向づけることとなった。また、霜田靜志訳『ニイル著作集』全10巻(黎明書房)は1967年~76年に刊行されている。

(「明星の年輪―明星学園90年のあゆみ」2014101日発行、明星学園)から転載

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