茶郷 基 (さごう もとい)
大草美紀(資料整備委員会)
学園設立時の後援者
卒業生の父、祖父
永中金山経営者・透視者・漢方薬通人
◇創立準備金3千円
◇小学部5教室・事務室・小使室・便所等109坪建築費1万2千円(古賀建設へ直接支払)
◇大正13年4月~14年6月まで、15ヵ月、月々380円宛、経常費として寄付
◇14年年末ボーナスとして500円寄付
◇見せ金小学校開始の時、ラサ島燐鉱株式額面4万円(九鬼紋七名義)を貸してもらう
◇中・女学校開設の時、北海道炭鉱株式額面7万円(内藤幸太郎名義)を貸してもらった。
――明星学園創立のときの唯一人の後援者――
明星学園創立趣意書のおわりに、「森幽に、水清き井の頭公園脇に千坪の土地と、ささやかな学舎を得て、友情に燃える私達が、隠れた後援を誓われる一教育愛好者に励まされて、新しい教育の樹立を企てました」とあるが、その「一教育愛好者」というのが茶郷基さんだったのである。学園創立の議が起ったのは大正13年2月24日のことで、学園を建てるためには、資金を得ることが何よりも必要なことであった。その後援者として第1に白羽の矢をたてたのが茶郷さんだった。
2月17日の午後、赤井が代表格で国分寺のお宅へ伺った。茶郷さんとはその前年からかつき合いがあり、お嬢さんの喜久子さんが、成城小学の1年生で、照井の受持であったことから、当時問題になっていた成城学園の郊外移転の土地物色のために、小原主事(玉川学園総長)とともに、しばしば国分寺のお宅へ相談にいっていた。そして茶郷さんは、赤井と同郷の石川県出身であること、朝鮮の永中金山を経営しておられる富豪であること、学生数人に学資金をみついでおられることなどを知って、深い尊敬を払っていた。お宅は、今国分寺駅の南口になっているあたり一帯で1万坪の屋敷は、瀟洒な作りの家であった。赤井は新しい学園を建てねばならないことになった事情を概略お話して、「1万円」助けていただけないだろうかとお願いした。貨幣価値のずっと高い時代ではあったが、1万円で学園が建つものでないことはわかっていたが、突然のお願いだから遠慮したのと、これだけあればまずスタートすることはできようし、スタートができれば、後はまた後、といったような大まかな考えであった。茶郷さんは即座に、「1万円ではたりなかろう。当分必要なだけの校舎を建ててあげよう。設備費も、経常費の不足も出してあげよう。」と、ほんとうに棚からばた餅のようなお返事であった。そして至急に「敷地」を選定するようにと注意された。
2月29日、いまの小学部の敷地をきめると、すぐに1年間の地代500円を千駄谷の赤井の家まで持ってきてくださった。校舎109坪(教室5・職員室・小使室・便所)をお知りあいの古賀貞周氏の会社へ委託してくださった。契約は赤井と古賀氏の間に作ったが、支払はすべて茶郷さんが、という了解のもので、契約高は1万2千円であった。設立認可願を東京府へ提出するとき、赤井は茶郷さんに設立者になっていただき、われわれは雇用人にしてくれと頼んだ。設立者は相当の資財をもっていることを示す必要があったのだ。それに対して茶郷さんは「あなたがたのために建ててあげるのだから、赤井が名義人になるように、資金をみせる必要があるならばこしらえてあげよう。」といわれて、ラサ島燐鉱の株式4万5千円を赤井の名義に書換えてくださったので、赤井はにわか大尽のような顔をして認可願いを出した。
2月の末にはじまった話が3月末には校舎建築にかかり、児童募集のちらしを配るというスピーデーな進行に、成城の人々はじめ知友の者は目をみはったものである。われわれも鼻高だかであった。ちょうどダルトン案の創始者ミス・パーカストが来て、各地で講演をした時であった。赤井は女史の通訳をしてまわって歩いて、いたるところでお祝いをいわれたりした。みんな茶郷さんのお陰であった。茶郷さんは多くの知人をもっておられた。栃内曽次郎(海軍大将)・加藤隆義(子爵・後海軍中将)・ 水野錬太郎(文部大臣)・床次竹次郎(内務大臣)・島芳蔵(正金銀行重役)、これらの方々のお宅へ赤井をつれていって、教育についての意見を聞かせたり、後援をお願いさせたりされた。
校具備品費として2千円いただき、敷地の地ならし、周囲の垣根つくりに出入の植木屋をいく日もよこし、ヒバ苗をたくさん持ってきてくださった。こうして5月15日開校式をあげた。ただし、児童は1,2,3学年の3組21人しか集まらなかった。大震災後の郊外移住は始まっていたが、井の頭公園南の学園付近は昔からの農家が2,3あるだけの、文字どおりの武蔵野だから、1千枚くらいのチラシをまいてもそうこないのが当然であった。しかし、これでは教師4人、小使夫婦の6人が食うことはできない。そこで茶郷さんは4人の教師の月給380円を毎月補給された。月謝6円、21人分の126円は小使給と諸雑費にあてればよいことになった。まことに呑気な経営であった。そのうちに児童数はだんだんふえてきた。夏の休みに開いた夏季学校の宣伝も手伝って、9月には40名近くになった。それでも茶郷さんは、はじめどおり380円ずつ出してくださった。明星学園のものが、その後財界の不況にさらされた時でも、屈託のない顔をしてやっていたのは、初期の茶郷さんに助けられた時分にできた、悠々とした校風のためであった。
茶郷基さんはもと神職の家から出られたので、古神道によく通じておられ、しばしばそのお話をされた。われわれが「先生」と呼んだのはこのためだった。さらに漢方医薬の造詣が深く病気療養の人びとによい注意をなされた。ずっと後のことであるが、わたしの長女もお世話になった。「医は慰なり」というお言葉をわたしは今も至言と思っている。われわれが「先生」と呼んだわけもここにもあった。むろん教育についてもいろいろなご意見をもち、よく教えられたが、いわゆる「新教育」の意気に燃えていたわれわれは、かえって反抗を試みることもあった。その中でも「習字」と「制服」の問題はずい分議論した。「画一」と「模倣」を何よりも嫌ったわれわれは、どうしても聞きいれなかったのであるが、それから40年、時代の変遷もあるがもっと冷静に教えをうけるべきだったというような悔が感じられる。
修身の救育も熱心で、「幼学綱要」を現代風に書きかえて、各学校へわけることを考えつかれ、照井に書き直してもらい、わたしは近衛文麿さんの題字をもらってきたりして、立派なものをつくり数万部売ったのであるが、出版社がずるくて茶郷さんも照井も骨折り損になったのは気の毒であった。茶郷さんのこうした力を利用して教育雑誌を出した先生もあったが、これはうまくいかなかった。第2年目には、新1年生が予定どおり30名人学し、2年以上の組は皆20名以上になったが、第1年同様に経常費を補助していただくことになっていた。
ところがその6月に、朝鮮の大雨洪水で永中金山にはひどい山崩れがあり、取引銀行は戦後の第1の不況という、二つの不幸が重って起った。口に出してはいわれなかったが、その被害は大変なものであったようだ。われわれは進んで経常費の補助を辞退して、自立の方策をとることにした。
その後山之内兵十郎さん・井野正次郎さん・川井源八さんなどに後援してもらったり、母の会・後援会をつくってもらったりして、多くの方々のご援助を願ったが、それは当初の茶郷さんの援助によって、「愛される校風」ができていたからである。茶郷さんは国分寺の屋敷を処分して、小金井駅近くに静かな家をたてられて隠棲の生活にはいられた。
昭和3年小学校の第1回卒業生が出て、中学校・高等女学校を開始したときには、建築資金4万円は、当時の父母の方がたがつくってくださった。しかし財団法人の基本金11万円を積んでみせねば、各種学校として発足しなければならないので苦労した。茶郷さんは北海道炭鉱の株7万円を提供してくださったので、関係者一同愁眉を開いたことであった。1校の設立認可でもなかなか困難なことなのに、中・女2校一度に認可されたのは全く異例といってもよいことであった。これも全く茶郷さんのお陰である。
書がすきで、きれいな字をかかれた。毎年1月2日に私は必ずお宅へ伺って書き初めをしたものである。茶道にも通じておられ、好まれ、名月の夜私たち夫妻が招かれて、お座敷で月を眺めながらお茶を教えられたのも忘れられぬことである。
☆茶郷夫人
シヨ(喜代)夫人は、表だつことを好まず主人の意志にそい、あくまで陰の後援者としての立場を堅持して、父母会・母の会その他の公的なところの活動は控えていた。ただ創立当初は準備も整っていない時であったため、多少、表面的なこともされた。創立開校の日は150人分のいなり寿司を折詰めにして徹夜で作り、当日は祝賀の会食に間にあわせた。校庭に樹木も少なかったので出入りの植木職人に植樹させたり、自宅の庭木を移植させたりした。後年、女学校の課外にお茶とお花の授業などをされた。
39年の30周年記念式典に、学園にとって第1級功労者の1人として茶郷基の功績が表彰された折、次のようなことを語られている。
「主人は在世中は明星学園の創立にお手伝いしたことなど外部の方へはいっさい洩らしませんでした。ことに、こどもに対しては絶対に秘密にしておりました。‥‥略‥‥はじめ、学園は先生がたった4人でしたが、主人はその方々、特に照井先生のご人格に接して、あんな立派な人のためなら、自分はどんなお力添えをしても惜しくないと常に申しておりました‥‥略す‥‥。」