山本 徳行 (やまもと とくこう)
大草美紀(資料整備委員会)
山本徳行、やまもととくこう、やまもととっこう
創立同人の一人
開校時の3年生を担任し、この学年が小学校を卒業するのと同時に退職。
在職期間大正13年~昭和4年
略歴
明治30年3月 愛媛県に生まる。
大正4年 今治中学校を卒えて、小学校代用教員となる。
大正5年 愛媛師範第2部入学。この時寄宿舎の舎監が赤井米吉であった。
大正6年 小学校訓導。
大正11年 私立成城小学校に勤務。
大正12年 日本大学高等師範部入学。
大正13年 私立明星学園創立に際し同人として参加。
創立当初3年担任、引きつづいて6年卒業まで担当する。
この間、日本大学法文学部入学。
昭和4年3月 明星学園を退職。
明星学園退職後、昭和4年天王寺師範学校教諭、9年大阪府視学就任、11年豊中市の小学校長、12年豊中市高等実践女子校長に就任、16年愛媛県主事など歴任して昭和26年今治明徳学園初代理事長、今治明徳高等学校長(昭和20~46年)、今治明徳高等学校学長(昭和41~53年)、短期大学学長兼務。
―明星学園創設に参加し、どのようなことを望み期待していたか―
☆思い切った新教育を考えていた
新教育とダルトンプラン
明星学園創設の年、赤井先生はダルトン・プランの紹介で話題の人となっていた。
それに、その頃創設者であるパーカスト女史の来朝があり、先生は女史の講演を通訳せられるため、全国をまわって多忙であった。私たち3人は思い切った新教育を考えていた。
まず、時間割のない教室である。始業・終業の合図もいっさいないのである。学籍簿もなければ出席簿も作らない。もちろん通知簿もない。そしてあるものは、克明に記した教育記録簿だけである。
教授の方式はプロゼクト・メソッドであり、ダルトン・プランである。校舎ができ、花壇の花が美しく咲き揃った頃には、生徒数も次第に増加して、1学級30人の定員にぼぼ近いまでになっていた。運動場にはスベリ台もでき、小鳥の舎もたった。小さな夢の学園である。子供たちはいっぱいの太陽を浴びて、広い武蔵野をかけめぐっていた。教師も子供もまっ黒であった。野外が常に教室であって、教室はむしろ休憩の場であった。しかし、妙案であると思っていたプロゼクト・メソッドも凡々の私たちでは長くつづけられえないものであるとわかった。2ヵ月もすればもう教材の発展が限界にきて、堂々めぐりをしている感である。こんなことで「学力」がつくであろうか。ダルトン・プランそのものも、生徒たちは伸びるようには見えるであろうが、ヒョロ長い身長で練り鍛えることに欠けている。叩き鍛え、教材の背後にあるものをつかみ取らせることが、これで果しうるであろうか。始業・終業の合図も、あってみれば邪魔くさいものではあろうが、段落のケジメをつけることもまたあってよいのではなかろうか。反省せしめられることが多い。私の悩みは更に大きくなるばかりであった。
明星学園同人の教育感と私
開校時に受け持った3年生が6年を卒業するので、私はここの教壇を降りた。その理由の一つには明星同人の教育観と、私のそれとの相違もあった。私には「学力」というものがあるとの信念がある。教育とは児童を成長せしめることであり、習得する力を得さしめることであるということは肯定する。しかし3年生には3年生としての「学力」があり、5年生には5年生としての学習知識を得ていなければならないと私は信じている。そしてそれはある場合においては、詰め込むこともまたやむをえぬ教育であると信じている。真理は日々に新しい。真の教育こそ新教育であるというのである。私は間違っているのかも知れない。しかしかかる私はすでに学園の異端者であった。もっともっと早く去るべきであったろうが、恩師赤井先生の恩情にあまえて、4ヵ年をお世話になったわけである。申訳のないことであった。
新聞の折込広告
大正13年千駄谷の赤井先生のお宅を事務所として明星学園創立の事務をとる。設立趣意書を印刷して、新聞の折込広告とし、千枚を配布する。創立趣意――「‥‥‥輝く理想、新鮮なる校風、生命に充てる教訓、是等三つのものは幼い魂の成長の大要件です。神と自然と人間の与うる聖い教を糧とし、温い友情の風を呼吸し、至高の理想に向って幼い魂は伸び上るのです。浮草の如くに転々として定まらぬ教師と点数と競争で駆られる児童が雑然たる知識の断片の蒐集を事としている現代の小学校では、幼い魂の伸びようもありません。新しい教育へ、幼い者を救い出さねばなりません。かかる考えをもって、森幽に水清き井の頭公園脇に、千坪の土地とささやかな学舎を得て、友情に燃える私たちが隠れた後援を誓われる一教育愛好者に励まされて新しい教育の樹立を企てました。思えば教育に身を献げてここに十数年、互に紆曲の道を辿って遂にカナンの地を得た心地がします。……」そのころの吉祥寺駅はまだ郊外の寒駅であった。弁天振袖で有名な吉祥寺が移転して、この門前町としての閑かな村落にすぎなかった。茫漠たる武蔵野がここにもあった。駅から南、原始林に囲まれた井の頭公園がある。その昔は「森幽に水清き」将軍さんのお狩場であったという。この公園を抜けて森・畑・草っ原とつづく。――この麦畑の中に「明星学園建設敷地」の棒杭を建てたのであった。夕暮れる頃ともなれば、広い池畔の杉林の上空高く、明星がキラキラと輝く。――明星――明星。――私たちもまた教育界の明星たれと、心ひそかに誓いあった。同人は赤井先生を中心に、先生が秋田師範の主事をしていた頃の訓導だった照井猪一郎君とその妻のげん先生、それに私の4人きりだった。顧問として沢柳政太郎先生。後援者は赤井先生と同郷である茶郷基氏であった。その頃、震災で焼野となった大東京は、復興に明け暮れる毎日であった。大工も左官も引っぱりだこの世の中とて、ささやかな校舎もなかなか建築ははかどらなかった。4月20日には1年生7名(照井げん先生担任)、2年生5名(照井猪一郎先生担任)、3年生9名(山本徳行担任)の全校生徒21名が、畠の中の「明星学園建設敷地」の棒杭の前に集った。井の頭の森が私たちの教室であった。すだく小鳥が友だちであり、芽ぐむ草、名も知らぬ花そのものが教材であった。
5月15日は、開校式をあげる。あいにくの雨で屋根からは雨雫が遠慮なく降る。風は囲いの冪をはたはたと鳴らす。生徒とその父兄たちもさぞ驚いたことであろう。もの静かな沢柳先生が、天井を見あげて「これはひどいね」とおっしゃったことは今も覚えている。しかし、私たちは希望に燃えたっていた。「友情に燃ゆる私たち」が、いっさいの規範から逃れて、思う存分な教育実践にはいることができるのである。「カナンの地」がここにある。一応校舎らしくできあがったのは6月の初め頃であったであろうか。私は照井君と2人で、あれこれ買い物に出かけたものである。新世帯となれば火箸1本、茶碗一つから買い揃えなければならない。たとえ全校21人といえども、学校は学校である。門札も出さなければならず、運動場も整地しなければならない。
カナンの地
――三十数年後に明星の地をふんで――
昭和41年6月3日、私は藍綬褒章の伝達式に参列した……翌4日は小雨の日であったが、私は文部省・大蔵省に出かけたので、妻は在京の子供3人に案内されて、箱根路を周遊する。そして次の日は、一同うち連れて赤井先生をお訪ねした。私はこの先生によって今日がある。まず何をおいても先生にこの光栄をご報告しなければならないと思ったからである。家族一同して井の頭の杜を歩く。そして明星学園を訪う。明星を創めたあの頃は、この杜も、もっともっと幽邃であった。原始林の面影が残っていた。27歳だった私はこの泉の傍で物思いにふけったものである。今ここに同行する3人の子はその頃まだ生まれてもいなかった。明星学園も随分変った。照井猪一郎君も逝ったし、上田八一郎君も他界した。「カナンの地」とて逃れて来た花園ではあったが、私は同行を離れて1人歩きをして来た。しかし明星の発展を希わない日は1日とてもなかった。何分にも思い出深い草分けの一人である。あの頃植えた木が、今では一抱えもの大木に生長しているのに驚かされる。その頃色をまっ黒にして武蔵野をかけめぐっていた教え子も、今ではもう52歳だという。嘘のような話である。思えば、お互に年輪を重ねたものである。
☆教育体験の記録
明星時代に著作したものに「尋三、四教育の実際」、成城小学校時代のものに「尋一教育の実際」がある。このほか児童読物として「児童太閤記」上・下2冊、「児童八犬伝」上・下2冊、読本指導書4冊、「学芸会のために」「鑑賞文章」の3冊、計12冊著作している。