「二人の兄の戦死」―江川玄武(9回生卒業生)
大草美紀(資料整備委員会)
明星学園PTA会報 学園創立30周年記念号(1954年5月発行)より抜粋
二人の兄の戦死
江川玄武(9回生・中学部卒業生)
私達兄弟の長男は第1回生、六男は第14回卒業生です。そうです、皆男ばかりで6人とも明星育ちです。一度に5人が明星に通学していたこともありました。
戦争が始まると順々に兵隊になり、とうとう最後は家に母だけが残り、空襲の日が続いたわけです。戦争が終わってみると、兄弟は4人に減っていました。2人しかおられない息子さんを2人とも戦争で亡くされた父兄もおいでになるそうですが、私たちは6人もいたおかげで2人は空箱で帰って来ましたが、4人は毛布を背負って戻って来たのは不幸中の幸いとでも言えましょうか。
しかし、親にしてみれば算術で割り切れるものではないらしく、時々夢を見ては私たちに話したりします。
長男は絵描きで兵隊に行くのを嫌がっていましたが、3年目に除隊して来ますと、けっこう私たちに軍隊生活の話をしたりしますので、私たちは「兵隊のなぐる話なんか聞きたくないよ」と兄の話を嫌がりました。除隊になってもすぐ招集があるというので、兄は民間会社の外地勤務を希望し、フィリッピン島のマニラへ転勤して“招集のがれ”に成功しましたが、そのうちにアメリカ軍が上陸したため現地招集があり、けっきょく間もなく、マニラの市街地で火焔放射器かなんかで焼き殺された模様です。戦死した日も場所も、殆ど全滅しているのでハッキリわかっていません。
次男は楽天家なので何とか生きて帰ってくると言っており、幹部候補生もうまく甲種は落ちて乙種になったから早く帰れると喜んでいましたが、大東亜戦争(太平洋戦争)が始まり、日本が負け始めるや、満州(日本占領下の中国東北部)からフィリッピン島へ移され、レイテ島で戦死したようです。次男もいつ死んだかはハッキリいたしません。
この2人は運命のいたずらか、次男が満州へ送られた任地の駅のホームで、長男に3年ぶりで十分ばかり会い、長男は次男の乗って来た列車で除隊のため満州から内地へ出発しました。その後長男がマニラの会社にいるときにヒョッコリと会社に次男が現れ、満州からレイテに送られるためマニラに寄ったと言い、1時間ばかり2人で話して、それきり長男はマニラで、次男はレイテに送られて死んだわけです。
三男四男はどうせ軍隊へ行くなら兵隊より士官がいいと海軍の予備学生を志願し、五男は対空部隊へ行きました。六男坊となるとどうしても予科練に行くと言って母を困らせた挙句、自分で願書を出しに行きましたが、海軍の兄貴が予科練の悲惨さをあわてて知らせて来たので、六男も予科練を思いとどまり、商船学校入学、イヤ入隊して(というのは商船学校の生徒は海軍生徒として軍籍があります)、士官の卵になって落ち着きました。
このように、兄から弟までのことをクドクドと書いてきたのは、同じ明星で育って来ても、下の者ほど戦争に熱心であったことをお知らせしたかったからです。別の言葉で言いますと、軍国主義教育(学校だけのことではなく)が一応成功したというわけです。あれほど気の弱かった長男でさえ、軍隊生活をして帰って来てからは殴ることが平気になったり、私刑の話を面白そうに話したりするようになりました。目の前で絞め殺した鶏が料理されて出されると食べる気がしないのが普通でしょう。それを、人間を殺せる精神状態にするため、その精神状態を持続させるようにする教育が軍隊だと誰かが言っていました。
それに戦争は人間の悪い面を平気で出させます。私の兄たちが、私たちにはよき兄であった者が、マニラで子どもを刺し殺したり、掠奪したり、おまけにそのあとで平気で食事したりしたとは考えられませんが、実際にそのようなことやそれに似たようなことをした軍人が非常にたくさんいることを考えると、その軍人のなかに私の兄たちを含んでいないと断言できないような気もします。戦場で婦人子どもを轢き殺すような人間の血の通っていない士官でも、家庭では音楽を聴き、自分の子どもをあやすのです。その士官は或いは私の、或いは貴方がたの兄弟や、夫や子どもかもしれません。また殺され片具にされた者も家庭には家族がいることでございましょう。
「お父さん! 鉄砲かついでよそのお父さんを殺しにいくの?」
私たち兄弟は刑務所に入れられても殺人罪にならないし、天皇陛下のためなどということにも騙されない決心を、2人の兄の戦死によって得ました。
幸いにもPTAの会報を拝見しましたところ、PもTも子どもを平和に育てるよう努力していらっしゃるので、この逆コースの世の中で、この会報がじつに楽しく読めました。私たち卒業生がたどった戦争――兵士というコースを再び在学生がたどらぬよう、また正しく強く生きてゆく力がつくように、との先生方と父兄の努力に成功を祈ります。