日時計の由来と「明星科学館」

大草美紀(資料整備委員会)

小学校の門を入り石段を上ると、右側の小学校舎の前に創立者赤井米吉先生の像があり、その右手に古びた日時計がこぢんまりと佇んでいる。風化した石の台座には「明星科學館備品 川井清寄贈」と刻まれている。この日時計の由来を学園の未来に遺したいと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

明星科学館の実現を望む                照井 猪一郎

…前略 過去十年の間、私達はまことにささやかながら教室だけは辛うじて間に合わせて参りました。しかしそれとても御覧の通りほんとに一般小学校のように教科書いじりにのみ終始する場合ならば間に合うという程度の校舎であります。私達の主張のように少しでも個人個人の能力を天分的に伸ばしていくために、個別的な指導を加えたいとすればする程、それに対応するだけの設備の必要が犇々(ひしひし)と迫って参ります。…中略… 貧しい私達はせめて児童が学習に際して自分の玩具同様に気(き)易(やす)且(か)つ自由に利用することの出来る設備を完成してやりたいという心でいっぱいであります。そしてそれは私達の教育方法の最後のものであります。

「求めよ、与えられん」で、それは私達にもあてはまる可能性を十分に予想できます。…中略… 私達の集めるのは、充分に、そして自在に児童の学習に活用させたいが為(ため)であります。消耗品ならば惜しみなく消耗させたいが為(ため)であります。ショーウィンドウの見本のように遙拝(ようはい)させる為でなく、手にとってさんざんいじり廻させたい為であり、子供達の手で自由に取り出し又は整理させたい為であります。それには先ず第一にそうしたことに充(あ)てる即ち保管と実験室を兼ねた建物が欲しいのであります。最初に是非建設したいのは数学、理科、地理、国史の研究館であります。私達は之(これ)明星科学館と名付けました。まだ建物のないのに名称があるのは変ですが、実は名称ばかりでなくこれに付属する備品ももう名簿に載って居るのであります。

それは昭和6(1931)故川井清君の在校記念として川井(源八)氏より金五百圓(えん)を寄贈されましたことに始まります。私達は清君を永久に記念する為に此(こ)の金を如何(いか)に善用すべきかの計画について長い間凝議(ぎょうぎ)した結果、之を契機として予(かね)て熱望せる明星科学館を設立し、消失し易(やす)い物品で清君を記念するよりも「明星科学館建設」なる事業の名に清君の生命を永遠に宿しました。そうしてそのお金で第一に英国ワットソン会社製3.5インチの天体望遠鏡を英人ケネデー氏から二百圓(えん)で譲り受け、次に三鷹天文台に依頼し、百二十五圓(えん)以(もっ)て校庭に日時計を建築しました。爾来(じらい)是等(これら)総(すべ)て学園の子供達に大きな興味と暗示を与えて彼らの科学的驚異感を示唆し続けて居ります。…中略… 昨年の1220日夜、この望遠鏡で万年に一度あるかなしという月の背面を通過する金星土星を観測したし、214日の日蝕も十分に見ることが出来ました。…中略… こうして建物のない明星科学館は内容的に次第に形づくられ哺(はぐく)まれつつ成長して居ります。

(しか)し前にも申したように十分に保管と実習に充てる建物のないことはこのよい発展を行きづまらせる大きな支障であります。バラックでもいい、せめて五間に十二間位の建物が一つほしい(1間=1.8m)。そしたら子供達のこの方面の学習は今の幾倍の能率を挙げ、家庭学習の学校への逆延長となり得ることを信じます。後略…

小学部教育月報『ほしかげ』第5号(1934225日)

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