喜びの日を前に―清田宏子(2回生、小5の母)
大草美紀(資料整備委員会)
明星学園PTA会報 学園創立30周年記念号(1954年5月発行)より抜粋
今からちょうど30年前の大正13年(1924)5月15日、その日は朝から土砂降りだった。母に連れられた私と妹は、雨に濡れて、一際輝かしい緑の美しさに目を見張りながら、幼心にも希望と喜びに胸をふくらませて学園の門をくぐったものだった。
新しい教育の理想に燃えた4人の先生方と、21人の子どもたちとその父兄にとって、小さな学園は呱々の声を挙げた。未完成の校舎は、式の最中も絶えずぽたぽたと雨漏りしていた。あの時、居合わせた誰しもがあの印象深い雨を長く忘れる事はできないであろう。
今は大阪で高校の校長先生をしておられる山本(徳行)先生から校章の説明を伺ったり、皆でおすしをいただいたりしてから、晴れ間を見て、校門の前の杉林で記念撮影をした。
翌日から真剣で楽しい私たちの共同生活が、武蔵野の一幅に営まれ始めた。当分の間1年から3年まで、一つ部屋に仲良く、それぞれの先生を囲んで、寺子屋さながらに勉強したものだった。私たち2年は、たった5人きりだった。
今の休養室がその頃の職員室で、正面の窓際にはいつも、げん先生がどっしりと座を占めておられ、そこに先生のお姿が見えないと、私たちは何か歯の抜けたような淋しさを覚えたものだった。裏には当時の明星に忘れられない存在として小使さんの武さんというおじさんが住んでいた。なかなかの人気者で、私たちの世話を本当によくしてくれたし、照井先生から震災の時の小父さんの美談を伺って、皆尊敬さえもしていた。
その頃の公園は、うっそうとした杉の大木が立ち並び、雨の日等は怖いほど静まり返っていた。が、お花見や栗飯の頃には、のれんを下げた池畔のお茶屋もなかなかの賑わいを見せていた。黒門から、平山博物館の前辺り一帯は雑木林で、春には金蘭、銀蘭、草ぼけ、つぼすみれなどが咲き乱れ、秋はまばゆいほどの芒(すすき)の波であった。学校の帰り、花摘みに夢中になって、時のたつのも忘れてしまった事等もあった。
たいていの日には勉強も食事も戸外でなされた。日光も草木も校舎も先生も、私たち子どもも皆、新鮮でぴちぴちと跳ね返るようだった。
いまのレンズ工場(千代田光学)の辺り(私たちは板橋のグラウンドと呼んでいたが)から、武者小路先生のお宅辺りにかけては雑木林の間にも広々とした草原があり、そこは静かな勉強の場所にもなり、劇のけいこ場にもなり、海戦遊戯の舞台にもなり、楽しい茶話会のお座敷にもなった。私たちはこの広々とした武蔵野を全く我が物顔に占領し、その学習や生活はこれ等を最大限に活用してなされた。ある大雪の朝、道のつけられていない杉林の中で、膝まで没する深い雪に長靴をとられとられして、私はやっとの思いで学校にたどり着いた。果してその日は登校者もごく僅かで、先生方がご褒美にと豚汁を御馳走してくださった。深々と降りしきる雪を外に、この豚汁に、私たちの身も心もしんから温められ、子ども心にもその喜びをしみじみと感じたものだった。
校舎が次第に整えられるにつれ、門のところには緑の馬車廻しが設けられ、小鳥や猿、山羊、蜜蜂なども飼われるようになった。また、私たちの手で庭に池を掘り、睡蓮を植えたり、2人で1組の花壇や畑等も作られた。皆が鍬で耕し、種子をおろした台地には、やがて次々と美しい花が咲き、絶えず教室を飾ってくれた。ある夏、照井先生とご一緒に皆でこやしをやって丹精した収穫として、瑞々しいトマトや胡瓜、茄子等皆で持ち帰れないほどとれた。
その喜びは洋服にはね返った。こやしの匂いもさして気に掛からないほどの大きさで私たちの心に返ってきた。汗の貴さ、勤労の喜びを私は初めて知った。あの頃の特殊な私立学校で、肥担ぎまでしたところは、恐らくないと思う。
講堂を持たなかった私たちは今の1・2年生の教室の前の廊下を舞台に劇を演じ、芝生は観覧席となり、なかなか親しみ深い光景であった。未だ児童劇の珍しい時代で、照井先生作の「こぶとり」「玩具のお国」「すくなびこなの命」「おろち退治」「月夜の小鳥」等、皆この廊下の舞台で演じられた。
またあの頃は教科書はなく、全部先生の手になるプリント授業であった。毎朝、山のようにプリントを抱えて教室へ入っていらっしゃる照井先生のお姿が今も思い出される。私たちは熱と理想に燃えた先生方の最初の実験台として、本当にのびのびと自由に育った。
しかしそのかげには、子どもの預かりしらなかった、実に血のにじみ出るような先生方の御苦労と、その辛苦をわかちあった父兄の力のあった事を後になって初めて母から聞かされた時、私は本当に胸がいっぱいになってしまった。現在に比べれば、すべてに小規模で乏しい設備の中にありながら、精神的には大きな収穫に恵まれたことを、私は本当に感謝している。30年という月日は長い。その間にはいろいろのことがあった。が、先生方の教育に対する強い信念は、あらゆる障害を克服して、遂に実を結ぶ日が訪れて来た。16日の佳き日を前に、私の頭の中は30年前の雨漏りのささやかな開校式のことでいっぱいだ。まして赤井先生、照井先生方のご感慨はどれ程だろうか。あんなに明星を愛していた母はもういない。私はお招きを受けた父とお祝いの式に参列し、ご病気のため今日の喜びを共にできない親しいお友だちの分も合わせて、心から「明星学園おめでとう」を言おう。
明星学園PTA会報 学園創立30周年記念号(1954年5月発行)より抜粋